第41話 境界の答え
静寂が戻っていた。
倉庫街の夜は、何事もなかったかのように沈んでいる。
戦闘の痕跡は残っているはずなのに、
街はそれを知らない顔で呼吸を続けていた。
怜は、その場に立ち尽くしていた。
拳を握ったまま。
肩を震わせたまま。
涙は、まだ止まらない。
頬を伝い、顎を落ち、石畳へとこぼれていく。
視界が滲む。
胸の奥が、痛い。
――でも。
それは、さっきまでの絶望とは違っていた。
フィンタンの言葉が、頭の中で蘇る。
『存在も』
『似る』
『それは』
『ヴェイルだったのではないか』
断片だった。
意味のわからない、曖昧な言葉。
だが今は違う。
怜は、はっきりと理解していた。
違う。
似ているんじゃない。
同じだった。
完全に。
寸分違わず。
同じ存在。
同じ仕組み。
同じ現象。
胸の奥で、何かが音を立ててはまる。
――カチリ。
「……境界」
小さく呟く。
あの時。
ヴェイルは、消えた。
逃げたのではない。
移動した。
境界の向こうへ。
そして。
自分は。
あの日。
あの瞬間。
同じように――
「つながってる……」
息が震える。
声が掠れる。
「ヴェイルの境界で……」
言葉が続かない。
だが、理解は止まらない。
点と点が、線になる。
線が、形になる。
そして。
形が、意味になる。
帰れる。
かもしれない。
この世界から。
元の場所へ。
母のいる場所へ。
胸の奥で、小さな火が灯る。
それは、今まで一度も感じたことのない感覚だった。
希望。
一握りの。
かすかな。
でも、確かに存在する光。
だが。
同時に。
別の事実が、重くのしかかる。
スマートフォン。
電源。
失われた手段。
母との声。
途切れた通話。
あの最後の瞬間。
「怜! 今どこに!」
「お母さん!」
記憶が、鮮明に蘇る。
声。
温度。
息遣い。
届きそうで、届かなかった距離。
胸の奥で、何かが決壊した。
「……っ」
呼吸が乱れる。
視界が揺れる。
足元がふらつく。
抑えていたものが、すべて崩れる。
今まで。
必死に。
無理やり。
押し込めてきたもの。
恐怖。
孤独。
不安。
怒り。
寂しさ。
後悔。
そして。
安堵。
全部。
全部。
一度に溢れ出した。
怜は、その場にしゃがみ込んだ。
両手で顔を覆う。
声が漏れる。
「……うぅ……」
嗚咽。
抑えようとしても、止まらない。
涙が止まらない。
呼吸が整わない。
体が震える。
子供のように。
何も隠さず。
ただ。
泣き続けた。
少し離れた場所で。
エドマンドは、黙って立っていた。
何も言わない。
近づかない。
触れない。
ただ。
見守っていた。
彼の視線は静かだった。
理解している。
事情のすべてを知っているわけではない。
だが。
何かが起きたこと
それだけは、はっきりと感じ取っていた。
そして。
それが。
この少女にとって。
どれほど大きな意味を持つかも。
どれくらい時間が経ったのか。
怜は、ようやく顔を上げた。
目は赤く腫れている。
頬は濡れている。
呼吸はまだ少し不安定だ。
それでも。
少しだけ。
落ち着いていた。
その時。
エドマンドが、ゆっくりと歩み寄った。
無理に距離を詰めることはしない。
だが。
必要な分だけ、近づく。
そして。
静かな声で言った。
「……帰る場所があるのだな」
問いではなかった。
確認でもない。
ただの事実。
怜は、一瞬だけ驚いた顔をした。
だが。
否定しなかった。
できなかった。
代わりに、小さく頷く。
エドマンドは、それ以上追及しなかった。
代わりに。
穏やかな声で言った。
「ならば」
一拍。
「必ず、辿り着ける」
断言だった。
迷いのない言葉。
根拠を求めない。
証明もしない。
ただ。
信じている者の声。
怜の胸が、少しだけ温かくなった。
宿に戻る頃には、夜はすっかり深まっていた。
廊下には灯りが少ない。
木の床が静かに軋む。
戦闘の疲労。
感情の消耗。
体が重い。
頭もぼんやりしている。
部屋の前で、エドマンドが立ち止まった。
鍵を取り出す。
扉を開ける。
「入れ」
短い言葉。
怜は素直に従った。
部屋の中は静かだった。
机。
椅子。
ベッド。
そして。
柔らかなランプの光。
現実に戻ってきた。
そんな感覚がした。
怜は、ぼんやりとエドマンドを見上げた。
整った顔。
落ち着いた表情。
静かな眼差し。
改めて思う。
――イケメンだな。
どうでもいい感想が、頭に浮かぶ。
緊張が緩んだ証拠だった。
その時。
ふと。
違和感に気づいた。
ベッド。2つ。
――ああ。
そうだ。
ここは最初から。
相部屋だった。
今さらの事実。
だが。
なぜか。
妙に意識してしまう。
胸の奥が、少しだけ落ち着かない。
怜は、そっと視線を逸らした。
その時。
エドマンドが、短く言った。
「休め」
それだけ。
余計な言葉はない。
だが。
声音は、いつもよりわずかに柔らかかった。
怜は小さく息を吐く。
体の力が抜ける。
今日一日の出来事が、
どっと押し寄せてきた。
戦闘。
涙。
母の声。
希望。
そして。
疲労。
限界だった。
怜は、ゆっくりとベッドに腰を下ろす。
柔らかい感触。
現実の重さ。
「……」
何か言おうとして。
言葉が見つからない。
代わりに。
小さく呟いた。
「おやすみ」
エドマンドは一瞬だけ怜を見た。
そして。
静かに頷いた。
「おやすみ」
灯りが落ちる。
部屋が暗くなる。
静寂。
その中で。
怜は、目を閉じた。
涙で重くなった瞼。
だが。
心の奥には。
かすかな光が残っていた。
帰れるかもしれない。
その希望を。
胸に抱いたまま。
怜は、ゆっくりと眠りへ落ちていった。




