第40話 境界の宣告
男は静かに湯呑を持ち上げ、立ち上る湯気をしばらく眺めてから、ゆっくりと口を開いた。
「お早い到着だ。もう少し時間がかかるかと思っていたが、どうやら君たちは想像以上に勤勉らしい」
柔らかな声音だった。
だがその奥には、相手を試すような含みがある。
エドマンドは椅子に腰を下ろしたまま、視線を一瞬も逸らさない。
「気づいていたのか」
男は微笑み、わずかに首を傾ける。
「もちろん。
そんな大きな獲物を携えていて、気づかれないと考えるほうが不自然というものだ」
その視線が、怜の横に置かれた布袋へと落ちた。
まるで、そこに収められた刀の存在を、最初から正確に把握しているかのようだった。
エドマンドは淡々と問いを重ねる。
「何者だ」
短く、しかし揺るぎない声だった。
男は湯呑を静かに机へ戻し、指先を組む。
「何者か、か。
君たちは既に名を与えているではないか」
わずかに笑みを深める。
「ヴェイル。そう呼んでいるのだろう?」
あまりにも自然な調子だった。
自らの種別を名乗ることに、何の意味も感じていないかのように。
怜は思わず息を呑む。
目の前にいる存在は、ほとんど人間と変わらない。
肌も、表情も、声も、すべてが整っている。
だが――
その整いすぎた在り方が、逆に人ならざるものの気配を際立たせていた。
エドマンドの声が低くなる。
「なぜ堂々と正体を明かす」
男は小さく肩をすくめた。
「隠す必要がないからだ。
いずれ知られることを、わざわざ覆い隠す理由はない」
そして、少しだけ前に身を乗り出す。
「それに――
君たちは、私たちにとって取るに足らない存在だ」
空気がわずかに張り詰める。
侮辱ではない。
事実を述べているだけ、という声音だった。
エドマンドは微動だにしない。
「消息を絶っている人間がいる。その件について説明してもらおう」
男はあっさりと頷いた。
「もちろん。隠すほどのことでもない」
指先で机を軽く叩く。
「彼らには、こちら側へ来てもらっている。
協力者として、あるいは材料として。
目的はただ一つ――観察と研究だ」
怜の胸の奥で、怒りが静かに燃え上がる。
「研究……?」
思わず声が漏れた。
男は穏やかな表情のまま、怜を見た。
「そう。
未知の現象を前にしたとき、人はそれを理解しようとする。
解剖し、記録し、分類し、再現する。
それが知性というものだろう?」
淡々とした説明だった。
悪意はない。
だからこそ、余計に冷酷だった。
エドマンドが言う。
「取るに足らないと言いながら、王都の人間では手が出せない状況を作り出している。
矛盾しているとは思わないのか」
男は静かに笑った。
「矛盾ではない。
ただ、尺度が違うだけだ」
そして、ゆっくりと言葉を続ける。
「蟻の巣を観察する人間が、蟻を恐れることはない。
だが、巣の構造には興味を持つ。
そこに知性があるかどうかを確かめたくなる」
視線が二人を順に捉える。
「君たちは、今まさにその段階にいる。
興味深い存在ではあるが、脅威ではない。
少なくとも――現時点では」
沈黙が落ちた。
空気がわずかに重くなる。
エドマンドの指が、ゆっくりと机の上で動いた。
「無知とは恐ろしい、と言ったな」
男は頷く。
「その通りだ。
無知な者は、自分がどれほど小さな世界に閉じ込められているかを知らない。
そして、境界の外に広がるものを想像することもできない」
次の瞬間。
男の気配が、静かに変わった。
温度が下がる。
空間が軋む。
「だからこそ――」
男は立ち上がる。
「少しだけ、教えてあげよう」
微笑み。
そして。
「もはや、秘匿する段階ではない」
その言葉と同時に、
空気が裂けた。
衝撃は、音より先に届いた。
床板が跳ね上がり、卓が砕ける。
茶室の壁が歪み、障子が吹き飛んだ。
エドマンドの体が横に弾き飛ばされる。
だが。
次の瞬間、彼はすでに立ち上がっていた。
抜刀。
銀の軌跡が閃く。
踏み込みは正確。
速度も、間合いも、非の打ち所がない。
だが。
届かない。
刃は男の目前で止まった。
見えない壁に触れたように。
男は一歩も動いていない。
「速いな」
感心したような声音。
「人間としては」
その瞬間。
見えない圧力が空間を満たした。
エドマンドの体が持ち上がる。
床から浮く。
空中で止まる。
骨が軋む。
呼吸が止まる。
「――ぐっ……!」
次の瞬間。
叩きつけられた。
床が割れる。
血が散る。
それでも。
エドマンドは立ち上がった。
剣を支えにして。
「……まだだ」
踏み込む。
連続斬撃。
すべて急所。
すべて必殺。
だが。
すべて。
弾かれる。
男が軽く手を振った。
それだけだった。
エドマンドの体が吹き飛ぶ。
柱を折り、壁を砕き、
外壁に叩きつけられる。
鈍い音。
そして。
動かない。
血が流れ落ちる。
怜の視界が白くなる。
負ける。
このままでは。
確実に。
その時。
手が動いた。
布袋を掴む。
紐を解く。
柄を握る。
抜刀。
風が生まれた。
室内の空気が一瞬で流れを変える。
男の目が、初めてわずかに細められた。
「……ほう」
怜は踏み込んだ。
恐怖は消えていない。
だが。
止まらない。
一歩。
床が割れる。
二歩。
風が集まる。
三歩。
刃が振り下ろされる。
轟音。
空気が裂けた。
見えない壁が歪む。
男の体が後退した。
ほんの半歩。
だが。
確かに。
初めて。
距離が開いた。
怜は止まらない。
追撃。
連撃。
風が渦を巻く。
建物の壁が裂け、
瓦礫が舞い上がる。
男の防御が軋む。
「面白い」
男が静かに言う。
空間が歪む。
黒い裂け目。
境界。
開く。
「今日はここまでにしよう」
穏やかな声。
最後に。
怜を見た。
真っ直ぐに。
「楽しみにしている」
消えた。
境界が閉じる。
静寂。
完全な沈黙。
「……はぁ」
怜は膝に手をついた。
呼吸が荒い。
胸が焼けるように痛い。
エドマンドが壁にもたれた。
血が落ちる。
だが。
立っている。
生きている。
その時。
ぽとり。
小さな音。
怜の足元。
黒い板。
スマートフォン。
ポケットから飛び出していた。
画面が光っている。
怜は拾い上げた。
そして。
固まった。
表示。
2%
「うそ……」
次の瞬間。
別の表示に気付く。
右上。
小さな印。
電波。
立っている。
呼吸が止まる。
指が震える。
迷いは。
一瞬だった。
発信。
耳に当てる。
数秒。
沈黙。
そして。
「……もしもし?」
声。
女の声。
懐かしい。
世界で一番。
聞き慣れた声。
「怜!?」
叫び。
涙があふれた。
「お母さん……!」
震える声。
「伝えたいことが、たくさんあるの!」
嗚咽。
涙。
「無事だから!」
必死に。
「必ず帰るから!」
ノイズ。
途切れる声。
「怜――」
音が消えた。
画面が暗転する。
電源が切れる。
完全な沈黙。
怜はその場に立ち尽くした。
スマートフォンを握りしめたまま。
涙が。
静かに落ちる。
エドマンドは何も言わなかった。
ただ。
少し離れた場所で。
黙って。
立っていた。
そして。
静かに。
見守っていた。




