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第39話 境界の呼び声

 灰都イザリスの空は、いつもどこか濁っている。

 夕刻。

 太陽はまだ沈みきっていないはずなのに、街の色はすでに鈍い灰色に染まり始めていた。

 煙突から立ち上る煤煙が低い雲に溶け込み、光を弱めているのだ。

 石畳の通りを、怜とエドマンドは並んで歩いていた。

 今日一日で、かなりの距離を歩いた。

 だが足取りは止まらない。

 まず訪れたのは、失踪した商人の店だった。

 香辛料と乾物を扱う小さな商店。

 棚には商品が整然と並び、帳簿もきちんと管理されている。

 店そのものに乱れはない。

 だが。

 店主はいない。

 代わりに、年配の女性が帳場に座っていた。

 妻らしい。

 彼女は最初、警戒していた。

 見慣れない二人組。

 しかも、一人はまだ若い少女。

 だがエドマンドが身分証――レジストリを静かに提示すると、

 その態度はすぐに変わった。

「三日前の朝でした」

 女性は低い声で言った。

「いつも通り、仕入れに行くと言って出て……それきりです」

 声は落ち着いている。

 泣き崩れる様子もない。

 だが、机の上に置かれた指先が、かすかに震えていた。

「争った形跡は?」

 エドマンドが尋ねる。

 女性は首を横に振る。

「ありません。

 持ち物も、そのままです。

 借金もありませんし、敵も……思い当たりません」

 怜は店内を見回した。

 整然とした棚。

 丁寧に磨かれた秤。

 壁に掛けられた家族写真。

 普通の暮らし。

 どこにでもある、当たり前の生活。

 それが、ある日突然、途切れている。

 理由もなく。

 説明もなく。

 胸の奥が、少しだけ重くなった。

 店を出た後、怜がぽつりと言う。

「逃げた感じじゃないね」

 エドマンドは歩きながら答える。

「その通りだ。

 自発的な失踪なら、もっと痕跡が残る」

 短い沈黙。

「つまり?」

 怜が聞く。

 エドマンドは前を見たまま言った。

「連れ去られたか、あるいは――」

 言葉を切る。

「自ら応じたか」

 怜は眉をひそめた。

「応じた?」

「説得、誘惑、契約。

 方法はいくらでもある」

 淡々とした説明だった。

 だが、その現実的な言い方が、かえって不気味だった。

 次に訪れたのは、技術者の住居だった。

 石造りの集合住宅。

 階段は狭く、壁には煤がこびりついている。

 扉を叩く。

 中から現れたのは、若い男だった。

 弟だという。

「兄は研究所勤めでした」

 男は疲れた顔で言った。

「真面目な人で、夜遅くまで仕事をして……でも、失踪するような人じゃない」

 部屋の中には、設計図や工具が並んでいた。

 机の上には、書きかけの図面。

 インクはまだ乾ききっていない。

 まるで、ほんの少し席を外しただけのようだった。

「最後に会ったのは?」

 エドマンドが尋ねる。

「二日前の夜です」

 男は答える。

「夕食の後、散歩に出るって言って……」

 言葉が止まる。

 そして。

 小さく付け加えた。

「帰ってきませんでした」

 沈黙が落ちる。

 怜は窓の外を見た。

 通りを歩く人々。

 煙。

 灰色の空。

 この街では、何かが静かに消えている。

 誰にも気づかれないまま。

 少しずつ。

 その後も、二人は何軒もの場所を訪れた。

 仕立て屋。

 銀行員。

 教師。

 港湾労働者。

 年齢も、職業も、立場も違う。

 裕福な者もいれば、貧しい者もいる。

 家族のいる者もいれば、一人暮らしの者もいる。

 共通点は――

 見つからない。

 日が傾き始めた頃、怜はとうとう口にした。

「ねえ」

 歩きながら言う。

「これ、ほんとに同じ事件なの?」

 エドマンドは足を止めない。

「同じだ」

 即答だった。

 怜は驚いた顔をする。

「どうして言い切れるの」

 エドマンドは少しだけ視線を上げた。

 遠くの煙突を見ている。

「痕跡がなさすぎる」

 静かな声。

「失踪の理由がばらばらなら、痕跡もばらばらになる。

 だが今回は、すべてが同じように消えている」

 一拍。

「整いすぎている」

 怜の背筋に、ぞくりとした感覚が走った。

「誰かが……」

 言いかける。

 エドマンドが続けた。

「管理している」

 その言葉は、重かった。

 その時。

 最後の光が地平線の向こうへ沈んだ。

 夜が来る。

 街灯が一つ、また一つと灯り始める。

 橙色の光が、霧のような煙をぼんやりと照らし出した。

 通りの人影が少しずつ減っていく。

 店の扉が閉まる音。

 遠くで鳴る鐘。

 怜は立ち止まった。

 胸の奥に、微かな違和感。

 空気が、わずかに揺れた気がした。

「……エド」

 小さく呼ぶ。

 エドマンドはすでに立ち止まっていた。

 そして、低い声で言った。

「行くぞ」

 振り向かないまま。

「元々、当たりをつけていた場所がある」

 怜は息を整える。

「どこ?」

 短い沈黙。

 そして。

「倉庫街だ」

 その言葉は、まるで最初から決まっていたかのように静かだった。


 その時。

 最後の光が地平線の向こうへ沈んだ。

 夜が来る。

 街灯が一つ、また一つと灯り始める。

 橙色の光が、霧のような煙をぼんやりと照らし出した。

 通りの人影が少しずつ減っていく。

 店の扉が閉まる音。

 遠くで鳴る鐘。

 昼のざわめきが、ゆっくりと街から引いていく。

 代わりに。

 静けさが満ちてくる。

 怜は立ち止まった。

 胸の奥に、微かな違和感。

 空気が、わずかに揺れた気がした。

 風ではない。

 気配。

 もっと、曖昧で、重いもの。

「……エド」

 小さく呼ぶ。

 エドマンドはすでに立ち止まっていた。

 そして、低い声で言った。

「行くぞ」

 振り向かないまま。

「元々、当たりをつけていた場所がある」

 怜は息を整える。

「どこ?」

 短い沈黙。

 そして。

「倉庫街だ」

 その言葉は、まるで最初から決まっていたかのように静かだった。

 倉庫街は、街の外れにあった。

 石造りの建物が整然と並び、昼間は荷車と労働者で賑わう場所だ。

 だが夜になると、その顔は一変する。

 人の気配が消える。

 灯りも少ない。

 ただ、巨大な建物の影だけが並び、

 通りを覆い隠している。

 足音が、やけに大きく響いた。

 コツ。

 コツ。

 石畳を踏む音が、壁に反射して返ってくる。

 怜は周囲を見回した。

 扉は閉ざされている。

 窓も暗い。

 人影はない。

 だが。

 完全な無人というわけでもない。

 見られている気がする。

 どこからか。

「ここだ」

 エドマンドが言った。

 一軒の倉庫の前で立ち止まる。

 他と変わらない外観。

 重い鉄扉。

 小さな窓。

 だが。

 怜は感じた。

 空気が違う。

 わずかに。

 ほんのわずかに。

 揺れている。

 水面に落ちた小石の波紋のように。

「……魔力」

 思わず呟く。

 エドマンドが頷いた。

「微弱だが、確かにある」

 静かな声。

「この街で、唯一だ」

 怜の背筋に冷たいものが走る。

 ここだ。

 間違いない。

 その時。

 ――カタン

 小さな音がした。

 中から。

 二人は同時に顔を上げた。

 扉の隙間から、かすかな光が漏れている。

 灯り。

 誰かがいる。

 気配。

 確実に。

「行くぞ」

 エドマンドが言う。

 短く。

 迷いなく。

 扉に手をかける。

 ゆっくりと押す。

 重い音を立てて、扉が開いた。

 ギィ――――

 暗い倉庫の内部。

 積み上げられた木箱。

 梁の影。

 天井から吊るされたランプ。

 そして。

 その中央。

 小さく整えられた空間。

 畳。

 低い卓。

 湯気の立つ茶器。

 まるで、客を迎えるために用意されたかのような席。

 そこに。

 一人の男が座っていた。

 紳士の装い。

 整った姿勢。

 静かな微笑み。

 男はゆっくりと顔を上げた。

 まるで。

 二人が来ることを、最初から知っていたかのように。

 視線が合う。

 その瞬間。

 空気が、わずかに張り詰めた。

 そして。

 男は静かに口を開いた。

「――お早い到着だ」

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