第38話 灰都へ向かう汽車
灰色の煙を吐きながら、汽車はゆっくりと王都を離れていった。
車輪がレールを叩く規則的な音が、単調なリズムとなって車内に響いている。
窓の外では、石造りの街並みが次第に小さくなり、やがて荒れた平原へと変わっていった。
怜は窓際の席に座り、流れていく景色をぼんやりと眺めていた。
膝の横には、布袋に包まれた刀が立てかけられている。
完全に隠れているわけではない。
だが、むき出しで持ち歩くよりは遥かにましだった。
向かいの席では、新聞を広げたままエドマンドが静かに目を通している。
紙面をめくる音だけが、時折小さく響いた。
しばらくして、怜が口を開いた。
「ねえ、エド」
新聞の向こうで、ほんのわずかに眉が動く。
だが訂正はしない。
「潜入ってさ」
怜は肘を窓枠に乗せたまま、問いかける。
「具体的にどうするの?」
エドマンドは紙面から視線を上げた。
そして、ゆっくりと新聞を折りたたむ。
「灰都イザリスでは」
静かな声だった。
「公には伏せられているが、重要人物が数名、消息を絶っている」
怜の表情が引き締まる。
「政治家、商人、技術者」
淡々と列挙する。
「いずれも都市の運営に関わる人間だ」
エドマンドは指先で机を軽く叩いた。
「同時期に、街の外縁部では魔物の出現が増加している」
短い沈黙。
「街へ向かって、だ」
怜はゆっくりと息を吐いた。
「偶然じゃない、ってこと?」
「現時点では断定できない」
エドマンドは首を横に振る。
「だが、関係性が不明なまま放置するには危険すぎる」
その声には、わずかな緊張が混じっていた。
「重大な事件が起こる前に、突き止める」
静かな決意だった。
汽車が大きく揺れた。
金属が軋む音が響く。
しばらくして、怜が視線を横にずらした。
エドマンドの腰には、小さな革のケースが下げられている。
そこに収まっているのが、彼のレガリア――フラガラックだ。
短い。
細い。
携帯性に優れている。
目立たない。
潜入向きだ。
対して。
怜は自分の横に立てかけた袋を見下ろした。
明らかに長い。
どう見ても武器だ。
しかも。
隠しきれていない。
エドマンドが口を開いた。
「その刀だが」
嫌な予感しかしない前置きだった。
「呆れるほど目立つな」
即断だった。
怜の口元が引きつる。
「袋、被せてるじゃん」
反論。
エドマンドは一瞬だけ視線を向ける。
そして、吐き捨てるように言った。
「被せていないよりは、ましだ」
容赦がない。
怜は黙り込んだ。
反論できない。
事実だった。
エドマンドは新聞を折りたたみ、ふと顔を上げた。
そして。
じっと怜を見た。
頭の先から、つま先まで。
露骨な観察だった。
怜は眉をひそめる。
「……なに」
短く言う。
エドマンドは小さく息を吐いた。
「普段と違う格好をしてこい、と言ったはずだ」
静かな声。
だが、明確な指摘だった。
怜は自分の服を見下ろす。
白いシャツ。
紺の上着。
チェックのスカート。
どこにでもある、学生の制服。
そして。
顔を上げる。
「だからこれじゃん」
あっさり言った。
一拍。
エドマンドの眉が、わずかに動く。
「……どういう理屈だ」
低い声。
怜は肩をすくめる。
「普段は普通の服、ちゃんと着てるし」
事実だった。
任務の報酬で買った服。
街でも浮かない、大人向けの格好。
「だから今日は“普段と違う格好”」
理屈としては成立している。
エドマンドは数秒、沈黙した。
そして。
ゆっくりと言った。
「『目立たない』普段と違う格好と言った」
抑えた声。
だが、はっきりとした訂正だった。
さらに続ける。
「学生は目立つ」
短い。
断定だった。
怜は口を開きかけて――
止まる。
確かに。
この街で任務に就く人間に、学生は少ない。
短い沈黙。
やがて。
「……はい」
小さく言った。
完全には納得していない声。
エドマンドはそれ以上追及せず、
視線を窓の外へ戻した。
「到着後、衣服は調達する」
事務的に言う。
「潜入任務において、外見は装備の一部だ」
淡々とした判断だった。
怜は小さく息を吐いた。
「了解」
ぶっきらぼうに答える。
だが。
その後。
ほんの一瞬だけ。
制服の袖口に触れた。
すぐに手を離す。
エドマンドはそれを見ていたが、
何も言わなかった。
汽車は夕刻、灰都イザリスの駅に到着した。
空は重く曇り、街全体が煤に覆われているかのように暗い。
石造りの建物はどれも古び、煙突から立ち上る煙が低い空をさらに灰色に染めていた。
人通りは多い。
だが、どこか落ち着きがない。
視線が忙しなく動いている。
居心地の悪い空気だった。
エドマンドは周囲を一瞥し、短く言った。
「まずは拠点を確保する」
「拠点?」
怜が聞き返す。
「宿だ」
当然のような答えだった。
「事前に予約してある」
石畳の通りをしばらく歩いた後、二人は小さな宿の前で立ち止まった。
古びた看板が軋みながら揺れている。
扉を開けると、暖かな空気とともに木の匂いが流れ出てきた。
受付の奥には、中年の女主人が座っている。
エドマンドが一歩前に出た。
「予約していた者だ。エドマンド・グレイ」
女主人は帳簿を確認し、うなずいた。
「ええ、確かに」
そこで、視線が怜に移る。
一瞬。
止まった。
上から下まで、じっと見られる。
特に。
制服姿。
そして。
刀の袋。
最後に。
エドマンド。
再び。
怜。
そして。
少しだけ眉をひそめた。
「……お連れの方は?」
声色が、わずかに変わっていた。
エドマンドは平然と答える。
「同行者だ」
短い。
説明になっていない。
女主人はさらに眉を寄せる。
視線が、今度は怜の顔に固定される。
明らかに。
年齢を測っている。
そして。
小さく、しかしはっきりと。
言った。
「未成年……では?」
沈黙。
怜が口を開こうとした。
その前に。
女主人は、ほんの少しだけ声を落とした。
「当宿は、健全な営業を心がけておりますので」
空気が止まった。
数秒。
理解した。
完全に。
怜の頬が引きつる。
エドマンドは、まったく表情を変えずに言った。
「誤解だ」
短い。
非常に短い。
だが、妙に重い一言だった。
女主人はしばらく二人を見比べていたが、やがて小さく咳払いをした。
「……失礼しました」
そう言って、鍵を差し出した。
部屋は質素だった。
木のベッドが二つ。
小さな机。
窓。
最低限の設備。
だが清潔だった。
怜は荷物を床に置き、深く息を吐いた。
「やっと落ち着いた……」
ぽつりとつぶやく。
エドマンドは窓際に立ち、外の通りを観察している。
完全に仕事の顔だ。
怜はそれを横目で見ながら、制服の内ポケットに手を入れた。
指先が触れたのは、小さな固い板。
慎重に取り出す。
黒い長方形。
スマートフォン。
取り出した瞬間、怜は反射的に視線を上げた。
エドマンド。
まだ窓の外に意識を向けている。
こちらには背中を向けたまま。
気づいてはいない。
――よし。
胸の奥で小さく息を吐く。
この装置の存在は、まだ彼には知られていない。
異世界から来たことも。
フィンタンにはすでに話してある。
最初から協力してくれている。
だからこそ、余計に思う。
この人には――まだ早い。
理屈で納得する人物ではある。
だが同時に、必要と判断すれば容赦なく情報を整理し、利用する人間でもある。
今はまだ。
切り札は見せない。
怜は音を立てないよう、指先で電源ボタンを押した。
数秒後。
画面が淡く光った。
懐かしい壁紙。
家族写真。
両親。
そして。
友人たち。
笑っている。
いつもの日常。
胸の奥が、少しだけ痛んだ。
画面の端に表示された数字が目に入る。
バッテリー残量:18%
怜の表情が固まる。
「……減ってる」
小さな声。
当然だった。
もう一ヶ月以上。
充電していない。
このままでは、いずれ完全に消える。
怜はゆっくりと息を吐いた。
「無駄遣い、できないな……」
画面を見つめながらつぶやく。
そして、ふと思い出す。
「そうだ」
小さく言う。
「フィンタンに聞いてみよう」
あの人なら。
この世界の理屈で。
きっと何か方法を見つけてくれる。
妙な安心感があった。
その時。
扉の方から声が飛んできた。
「行くぞ」
短い。
命令だった。
振り向く。
エドマンドが既に外套を羽織り、扉の前に立っている。
「情報収集を始める」
即座。
容赦がない。
怜は慌ててスマートフォンを握りしめた。
「ちょ、ちょっと待って」
慌ただしくポケットに滑り込ませる。
急いで立ち上がる。
鞄を掴む。
刀の袋を持つ。
そして。
扉へ向かう。
エドマンドは既に廊下へ出ていた。
怜はその背中を追う。
足音が遠ざかる。
部屋には、誰もいなくなる。
ポケットの中で。
静かに。
画面が。
まだ。
点いたままだった。




