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第37話 10万円と淑女の条件

 場所は訓練場から少し離れた、石造りの小さな応接室だった。

 重厚な机と椅子が整然と並び、壁には古い地図と戦術図が額装されている。窓から差し込む午後の光は柔らかいが、部屋の空気にはどこか張り詰めた静けさがあった。

 怜は椅子に腰掛けたまま、まだ少しだけ不満そうな顔をしている。

 対面には、背筋を伸ばして座るエドマンドの姿。

 机の上には湯気の立つ茶器が置かれていた。

 数秒の沈黙の後、エドマンドが口を開いた。

「先程から仕切りに叫んでいたな」

 静かな声だった。

「ジュウマンエン、という言葉を」

 怜の肩がぴくりと動く。

「……ああ」

 少しだけ気まずそうに視線を逸らす。

 エドマンドは淡々と続けた。

「報酬のことか」

 確認というより、既に答えを得ている者の口調だった。

 怜は小さく息を吐く。

「そう。祖国の通貨」

 短い説明だった。

「私の国では、それなりに大きな金額なんだよ。生活が一ヶ月くらい安定するくらいには」

 エドマンドは黙って聞いていたが、やがて静かに言った。

「知性が感じられないな」

 間を置かず。

「金の亡者だ」

 あまりにも率直な評価だった。

 怜の眉がぴくりと跳ねる。

「……言うね」

 声は低い。

 だが、怒鳴りはしない。

 代わりに、ゆっくりと顔を上げた。

「あなたには分からないでしょ」

 視線がまっすぐ突き刺さる。

「金欠の辛さなんて」

 ほんの一瞬だけ、部屋の空気が重くなる。

 エドマンドは表情を変えなかった。

「そこまでの状況に陥ったのは」

 淡々と。

「計画性のなさが原因だ」

 容赦のない指摘だった。

 怜は言葉を失う。

 反論しようと口を開きかけて――閉じる。

 思い当たる節が、多すぎた。

 エドマンドはさらに続ける。

「感情に流され、先の見通しを立てず、結果として資金が枯渇する」

 まるで報告書を読み上げるような口調だった。

「極めて非効率的だ」

 そして。

 ほんのわずかに眉を寄せる。

「とても淑女とは思えない」

 追撃だった。

 怜のこめかみに青筋が浮かぶ。


「……は?」


 低い声。

 数秒。

 沈黙。

 そして。

「悪かったね」

 ゆっくりと言う。

「生活費のために命張ってて」

 言葉は静かだったが、棘があった。

 エドマンドはその言葉を受け止め、少しだけ目を細めた。

 怒りでも嘲笑でもない。

 観察するような視線だった。

 だが、それ以上は何も言わない。

 代わりに、机の上の書類を一枚取り上げた。


「気を取り直そう」


 空気が切り替わる。

 完全に。

「今回の任務について説明する」

 怜は小さく息を吐き、背筋を伸ばした。

 仕事の顔になる。

 エドマンドは書類を机の中央に滑らせた。

 そこには地図が描かれていた。

 都市の輪郭。

 街区。

 そして、いくつかの赤い印。

「灰都イザリス」

 低く告げる。

 怜は地図を覗き込んだ。

「ここ最近、異変が続いている」

 指先が、都市の中央を示す。

「失踪者の増加。不可解な事故。記録に残らない暴力」

 淡々とした報告。

 だが内容は重い。

 怜は眉をひそめた。

「妖……じゃないな」

 無意識に口に出る。

 エドマンドは小さくうなずいた。

「ヴェイルだ」

 その単語が落ちた瞬間、部屋の空気がわずかに冷えた気がした。

 怜の表情が引き締まる。

「関与が疑われている」

 エドマンドは続ける。

「しかも今回は――」

 一拍。

 視線が怜に向けられる。

「人型だ」

 短い言葉だった。

 だが重みがある。

 怜は黙って地図を見つめた。

 脳裏に浮かぶ。

 あの夜。

 異様な気配。

 そして。

 普通の妖とは明らかに違った存在。

「……厄介だね」

 小さくつぶやく。

 エドマンドはうなずいた。

「だからこそ、正面からの制圧は選ばない」

 静かに言う。

「今回の任務は」

 指先が、都市の外縁部をなぞる。

 そして。

 中央へ。

 止まる。

「潜入だ」

 言葉は短かった。

 だが。

 任務の重さは、十分に伝わった。

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