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第36話 氷刃の名と、10万円の価値

王都の訓練場は、曇天の下に静まり返っていた。

円形に敷き詰められた石畳の中央だけが、季節外れの冷気に包まれている。

怜は腰に差した刀の柄に手を添えた。

いつもと変わらぬ重みが、掌に確かな現実感を与えてくれる。

「……本気でいくよ」

小さくつぶやくと、鞘の中から落ち着いた声が返ってきた。

『当然だ。相手は手練れだぞ』

対する男は、わずかに距離を取って静かに立っていた。

長い髪を後ろで束ね、無駄のない姿勢のまま、ただこちらを観察している。その視線には焦りも驕りもなく、計測するような冷静さだけがあった。

審判役の兵士が一歩前に出る。

「両者、レガリア確認。安全術式を展開する」

淡い光が訓練場を覆い、薄い膜のような結界が周囲を包み込んだ。

致命的な一撃は自動的に停止される。

つまり、本気で戦っても死なないということだ。


男が一歩踏み出す。

「名乗っておこう」

低く、よく通る声。

「エドマンド・グレイだ」

怜は瞬きをした。

確かに聞き取りやすいが、どこか格式ばった響きだった。

男はわずかに顎を引き、淡々と続ける。

「エドマンドでいい」

短い自己紹介だった。

怜は一拍置き、うなずく。

「分かった」

そして。

「よろしく、エド」

沈黙が落ちた。

男の眉が、ほんのわずかに動く。

「……私はエドマンドだ」

「知ってる」

怜は悪びれもせず言った。

「でも長いから。エドでいいでしょ」


数秒の間。

冷たい空気が、さらに一段下がった気がした。

だが男は何も言わず、ただ右手を上げた。

空気が変わる。

温度がすっと落ち、白い霧が足元から立ち上る。

やがて霧の中心に、氷が集まり始めた。

結晶が重なり、圧縮され、ひとつの形を取る。

細く、鋭く、無駄のない直線。

刺突直剣。

「私のレガリアだ――フラガラック」

澄んだ音が小さく鳴り、刃がわずかに光を反射する。

怜はその剣を見据えた。

すると、鞘の中から風神が低く言った。

『ただ凍らせた氷ではない。魔力で構造を固定している』

一拍置いて、さらに続ける。

『鋼より硬い。折れぬだろうな』

短い断定だった。

怜は柄を握る手に力を込めた。

厄介な相手だ、と素直に思う。

審判が手を振り下ろした。


「始め!」


その瞬間、エドマンドの姿が消えた。

――そう錯覚するほどの速度だった。

怜は反射的に刀を抜き放つ。

キィン、と鋭い金属音が弾けた。

火花と氷片が同時に散り、腕に重い衝撃が伝わる。

速い。

正確だ。

そして何より、迷いがない。

次の突きが一直線に喉元へ迫る。

怜は体をひねって紙一重でかわしたが、その足元で氷が乾いた音を立てた。

逃げ道だけが、正確に凍っている。

単なる力任せではない。

戦場を設計しているのだ。

横合いから氷柱が突き上がる。

死角からの一撃に、怜は反射的に跳び退いた。

だが、着地した場所もすでに凍結している。

囲まれている。

少しずつ。

確実に。

圧倒的な技量差を、嫌でも理解させられる。

それでも、怜の頭の中に浮かんでいたのは別のものだった。


10万円。


その単語が、妙に現実的な重さを持って心に居座っている。

ここで負ければ、収入はゼロだ。

怜は息を整え、あえて大きく踏み込んだ。

無理な距離。無理な角度。

明らかに隙の多い動き。

当然、反応される。

完璧な刺突が最短距離で喉元を狙ってきた。

その瞬間、怜はわざと足を滑らせた。

凍った床を利用して姿勢を低く崩す。

視線が一瞬だけ外れる。

その刹那、怜は刀を前方へ放った。

一直線の投擲。

エドマンドの氷刃が防御に回る。

わずかながら、動きが止まった。

その一瞬。

懐が、空いた。

怜は踏み込み、拳を握り込む。

「――っ!」

腹部に向けて、全力で打ち込んだ。

鈍い衝撃が手応えとなって返ってくる。

エドマンドの体が、ほんのわずかに揺れた。

ごく小さな変化だったが、確かに反応だった。

だが次の瞬間、すべてが終わる。

足元が完全に凍りついた。

氷が膝下を固定し、体の自由を奪う。

背後から首筋に冷たい感触が触れた。

氷の刃。

寸止め。

「終了」

審判の声が静かに響いた。

緊張が解け、怜の体から力が抜ける。

そのまま石畳の上に倒れ込んだ。

数秒の沈黙。

そして。

「……10万円が」

かすれた声が漏れる。

次の瞬間、感情が一気に噴き出した。


「10万円がぁぁぁぁ!!

私の生活費がぁぁ!!」


周囲の兵士たちが、微妙に視線を逸らす。

エドマンドはしばらく無言でその様子を見ていたが、やがて静かに口を開いた。

「採用だ」

怜の動きが止まった。

ゆっくりと顔を上げる。

「……え?」

「一撃を入れた時点で合格だった」

淡々とした口調だった。

怜はしばらく言葉を失い、ただ瞬きを繰り返した。

そして、ふっと顔をしかめる。

「最初から試験だったってこと?」

「そうだ」

「……じゃあさ」

怜はゆっくりと起き上がり、真顔で言った。

「エド」

一拍。

エドマンドは何も言わない。

怜は続けた。

「殴っていい?」

即答だった。

「不採用になる」

怜は深く息を吐き、静かにうなだれた。


10万円のために、我慢した。

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