第31話 騎士だった、実家もすごかった
王都に戻った翌日。
怜は中庭のベンチに座り、ぼんやりと空を見上げていた。
蒸気の白い筋が、遠くに伸びている。
汽車の煙だ。
昨日のことを思い出す。
初めての切符。
初めての列。
そして——
並ぶブリギット。
思い出すだけで、少し面白い。
「何を笑っている」
低い声がした。
振り向く。
ブリギットが立っていた。
腕を組み、いつも通り背筋が伸びている。
威圧感がある。
だが。
どこか落ち着かない。
昨日のことを思い出しているのかもしれない。
怜は慌てて首を振った。
「い、いえ」
誤魔化す。
そして。
ふと、口に出してしまった。
「ブリギットさんって」
少し考えて。
言葉を選ぶ。
「騎士っぽいですよね」
素直な感想だった。
姿勢がいい。
動きに無駄がない。
剣も強い。
まさに。
物語に出てくる騎士。
そう思っただけだ。
だが。
ブリギットは眉をひそめた。
「何を言っている」
短い声。
やや呆れた調子。
そして。
当然のことのように言った。
「私は騎士爵だ」
沈黙。
完全沈黙。
怜の思考が止まった。
「……え?」
聞き間違いかと思った。
だが。
ブリギットは平然としている。
「王国から正式に叙爵されている」
淡々と続ける。
「功績による名誉称号だ」
腕を組んだまま。
堂々と。
誇張も、照れもない。
事実を述べているだけ。
「……本当に騎士だったんですか」
思わず言ってしまう。
ブリギットは少し不機嫌そうに答えた。
「疑うな」
短い。
だが。
ほんの少し。
むっとしていた。
沈黙。
数秒。
怜はゆっくりと、もう一つ聞いた。
「ご実家は……?」
軽い気持ちだった。
だが。
返ってきた答えは。
やはり軽くなかった。
「伯爵家だ」
さらり。
何でもないことのように。
怜の脳が、もう一度止まった。
「……伯爵?」
ブリギットは頷いた。
「古い軍人の家系だ」
それだけ言った。
自慢でも誇示でもない。
単なる事実。
その日の夕方。
王都・訓練場。
鉄拳の音が響いている。
どん。
どん。
重い衝撃音。
怜が顔を向けると、そこにはドナルがいた。
上半身裸。
汗だく。
筋骨隆々。
まるで岩。
隣ではキアランが腕を組んで見ている。
最初の任務のときと同じ光景。
安心感がある。
現場の人だ。
そう思った。
そして。
ふと。
昼の話を思い出した。
怜は歩み寄る。
「ドナルさん」
男は動きを止めた。
ゆっくり振り向く。
「何だ」
低い声。
短い返事。
「ご実家って……」
少し躊躇う。
だが。
聞いてみた。
「爵位とか、あるんですか」
沈黙。
ドナルはしばらく怜を見ていた。
そして。
あっさり言った。
「ある」
短い。
実に短い。
「公爵家だ」
沈黙。
完全沈黙。
怜の思考が止まった。
再び。
世界が止まった。
「……公爵?」
ドナルは頷いた。
「兄が継いでいる」
さらに一言。
「俺は次男だ」
それだけ言って。
拳を振り上げた。
どん。
地面が揺れる。
まるで。
どうでもいい話のように。
その夜。
食堂。
木のテーブル。
湯気の立つスープ。
パン。
いつもの光景。
怜はまだ混乱していた。
騎士爵。
伯爵家。
公爵家。
情報量が多い。
多すぎる。
そのとき。
向かいに座っていたラウルが口を開いた。
「そんな顔をするな」
苦笑している。
怜は聞いた。
恐る恐る。
「ラウルさんは……?」
ラウルは肩をすくめた。
「うちは子爵家だ」
さらり。
本当に。
何でもないことのように。
怜は天井を見上げた。
整理する。
伯爵。
公爵。
子爵。
ここは。
何だ。
貴族会議か。
その時。
ブリギットが言った。
少しだけ面倒そうに。
「勘違いするな」
低い声。
「この国は民主国家だ」
きっぱり。
断言。
「爵位があっても、特別な権力はない」
淡々と。
「昔の名誉や功績の名残だ」
理屈としては分かる。
確かに。
制度上はそうなのだろう。
だが。
怜は思った。
——でも。
やっぱり。
すごい。
普通に。
周囲を見渡す。
ミレイ。
鍛冶見習い。
工具袋。
油の匂い。
どう見ても庶民。
最後の希望。
怜は慎重に聞いた。
「ミレイさんは……?」
ミレイは笑った。
明るく。
元気よく。
「うちは普通!」
救い。
だが。
続きがあった。
「曾祖父が男爵だったくらい!」
終了。
完全終了。
沈黙。
数秒。
そして。
最後の人物。
最大の謎。
怜はゆっくりと振り向いた。
マーラ。
椅子の背にもたれ、リンゴをかじっている。
この人だけは。
絶対。
普通。
そう信じたい。
希望を込めて聞いた。
「マーラさん」
「んー?」
気のない返事。
「ご実家は……」
一拍。
「爵位とか、あるんですか」
沈黙。
マーラの動きが止まった。
ほんの一瞬。
本当に一瞬。
そして。
にこりと笑った。
「さあね」
軽い声。
「昔のことは忘れた」
完全に。
誤魔化していた。
怜はじっと見つめた。
マーラは視線を逸らした。
口笛を吹く。
わざとらしく。
非常に。
わざとらしく。
沈黙。
数秒。
そして。
怜は深く息を吐いた。
ゆっくり。
本当にゆっくり。
そして。
心の底から思った。
——民主主義って、こういう意味だったっけ……?




