第30話 騎士、はじめてのきしゃ
王都の朝は、白い蒸気で始まる。
石畳の通りの向こう。
空に向かって、細い煙の柱が立ち上っていた。
しゅううう——。
低い音が響く。
怜は思わず立ち止まった。
「……すごい」
目の前を横切っていくのは、巨大な鉄の塊。
黒光りする車体。
回転する大きな車輪。
そして——
白い蒸気。
「これが……蒸気機関車……」
思わず呟く。
ダナーン王国。
蒸気の国。
そう呼ばれている理由が、ようやく分かった気がした。
煙突から噴き出す蒸気。
規則正しく鳴る金属音。
地面を震わせる重厚な振動。
生き物みたいだ。
怜はしばらく見とれていた。
そして。
ふと、思った。
「……どうやったら、乗れるんだろう」
素朴な疑問だった。
切符はどこで買うのか。
どこから乗るのか。
そもそも、誰に聞けばいいのか。
この世界の常識が、まだ分からない。
怜は少し考えた。
そして。
「……ブリギットさんなら」
きっと知っている。
偉い人だし。
王都の責任者だし。
何でも知っていそうだし。
うん。
間違いない。
数分後。
王都・行政庁舎。
執務室。
ブリギットは書類に目を通していた。
背筋を伸ばし、ペンを走らせている。
相変わらず隙のない姿勢。
怜は少し緊張しながら声をかけた。
「ブリギットさん」
顔を上げる。
「何だ」
短い返事。
落ち着いた声。
威厳がある。
怜は姿勢を正した。
「蒸気機関車って、どうやったら乗れるんでしょうか」
沈黙。
完全な沈黙。
ペンが止まった。
空気が固まった。
ブリギットは、数秒間何も言わなかった。
そして。
ゆっくりと。
視線を逸らした。
「……簡単だ」
一拍。
「駅に行って、乗ればいい」
堂々とした答え。
完璧な一般論。
だが。
どこか曖昧だった。
怜は首をかしげる。
「切符とかは……?」
沈黙。
ブリギットの指が、ほんのわずかに止まる。
「買えばいい」
短い答え。
やはり一般論。
怜はさらに首をかしげた。
「どこで……?」
沈黙。
静寂。
重たい静寂。
ブリギットの眉が、わずかに動いた。
そして。
小さく咳払い。
「……細かいことは気にするな」
言い切った。
威圧感付き。
だが。
怜は気付いてしまった。
——この人。
知らない。
「……知らないのか?」
背後から声がした。
ラウルだった。
腕を組み、呆れた顔。
ブリギットがゆっくり振り向く。
「知っている」
即答。
一切の迷いなし。
ラウルはため息をついた。
「乗ったことは?」
沈黙。
一秒。
二秒。
「……ない」
小さく言った。
視線を逸らしたまま。
その姿が。
妙に。
かわいかった。
「ロバにでも乗るのか?」
ラウルが続ける。
ブリギットは不機嫌そうに答える。
「部下が手配する」
当然のように。
「私は乗るだけだ」
誇らしげに。
つまり。
全部やってもらっている。
怜は少し困った。
こんなとき。
誰に聞けばいいんだろう。
頭の中で、顔を思い浮かべる。
マーラ。
——絶対ふざける。
エドガー。
——一緒に迷いそう。
ローレンス。
——理論から説明されそう。
そして。
一人。
浮かんだ。
「……ミレイさんかな」
安心感がある。
実務に強い。
工具も持っている。
何でも知っていそう。
数十分後。
王都中央駅。
巨大な建物だった。
鉄骨。
ガラス。
そして無数の蒸気。
しゅううう——。
汽笛が鳴る。
「おおー!」
ミレイが元気よく手を振った。
「来たね!」
いつもの工具袋。
油の匂い。
頼れる雰囲気。
「ミレイさん!」
怜はほっとした。
やっぱり正解だった。
だが。
その直後。
周囲の空気がざわついた。
人々が振り返る。
視線が集まる。
理由は明白だった。
ブリギットがいた。
堂々と。
真っ直ぐ。
そして。
その背後には。
完全武装の護衛。
二人。
さらに。
少し離れて。
もう二人。
合計四人。
完全に。
要人警護体制。
目立たないはずがない。
「……目立ってますね」
怜が小声で言う。
ミレイは苦笑した。
「うん」
即答。
「すごく」
周囲の人々がひそひそ話している。
「あれ……」
「隊長だよな……」
「何で駅に……?」
完全に注目の的だった。
ブリギットは腕を組んでいた。
平然と。
威厳たっぷりに。
だが。
視線は。
微妙に。
落ち着かない。
周囲をさりげなく見ている。
明らかに。
初めての場所。
ミレイが言った。
「じゃあ、まずは切符ね」
頼もしい声。
怜が頷く。
「お願いします」
ミレイは窓口を指差した。
「そこ」
シンプル。
分かりやすい。
だが。
ブリギットが動かなかった。
じっと見ている。
窓口を。
人の列を。
お金を出している人を。
真剣な目で。
観察している。
やがて。
小さく呟いた。
「……並ぶのか」
衝撃を受けたような声。
ミレイが振り向く。
「うん」
当然という顔。
ブリギットは少し考えた。
腕を組んだまま。
そして。
小さく言った。
「合理的じゃないな」
負け惜しみだった。
完全に。
その時。
背後から声。
「隊長」
護衛の一人が前に出る。
「我々が——」
ブリギットが手を上げた。
制止。
「いい」
短く言う。
そして。
一歩前に出た。
列の最後尾へ。
自分の足で。
堂々と。
並んだ。
周囲がざわつく。
護衛たちも驚いた顔。
怜は思った。
——意地だ。
完全に。
だが。
その背中は。
妙に。
誇らしげだった。
数分後。
ブリギットの番が来た。
窓口の前。
緊張している。
ほんの少し。
だが確実に。
店員が微笑む。
「どちらまで?」
沈黙。
ブリギットが固まる。
完全に。
固まる。
怜が小声で言った。
「行き先……」
ブリギットは。
ゆっくりと。
こちらを振り向いた。
ほんのわずかに。
頬が赤い。
そして。
小さく。
小さく。
呟いた。
「……決めていない」
完全沈黙。
ミレイが吹き出した。
怜も思わず口を押さえる。
護衛が顔を背ける。
そして。
ブリギットは。
無言で。
前を向き直った。
「……一番遠いところまで」
静かに言った。
店員が目を丸くする。
「はい?」
ブリギットは繰り返した。
少しだけ。
意地になって。
「一番遠いところだ」
完全に。
旅行の計画ゼロのまま、最大距離を選択した。
怜は思った。
今日の任務は。
きっと。
戦闘より。
難しい。
そして。
少しだけ。
楽しい。




