第29話 メーデー、メーデー!!!
王都生活、3週間目。
怜は悟っていた。
この街は危険だ。
ヴェイルよりも。
戦場よりも。
そして何より——
食事が。
「……お腹が、重い……」
石畳の通りを歩きながら、怜は小さく呟いた。
胃が。
とても。
重い。
限界だった。
肉体的な疲労ではない。
精神的な緊張でもない。
消化能力の問題である。
「ほら、次行くよ」
前を歩くマーラが、くるりと振り返った。
いつも通り元気。
いつも通り軽い。
そして——
いつも通り、楽しそうだった。
「ま、まだ……?」
怜の声はかすれていた。
マーラは笑う。
「何言ってんの」
あっさり。
「まだ昼前だよ?」
絶望的な情報だった。
最初の洗礼は。
血のソーセージだった。
皿の上に乗っていたのは、黒い円柱。
見た目は完全に——
何かの儀式用品。
「これ、栄養あるんだよ」
マーラは嬉しそうに言った。
「鉄分たっぷり」
理屈は分かる。
理屈は。
だが。
口に入れた瞬間。
怜の思考が止まった。
「……」
味は濃厚。
香りは強烈。
食感は——説明不能。
エドガーが横で小声で言った。
「だ、大丈夫ですか……?」
本気で心配している顔。
優しい。
とても優しい。
だが助けにはならない。
第二の洗礼は。
変なチーズだった。
白い。
柔らかい。
そして。
匂いが強い。
いや。
強いという表現では足りない。
存在感がある。
主張している。
部屋を支配している。
「熟成が命なんだよね」
マーラは誇らしげだった。
「三か月」
怜は思った。
——三か月も何してたんだろう。
チーズは静かに皿の上に座っている。
だが。
確実に。
攻撃している。
嗅覚を。
理性を。
食欲を。
「……いただきます」
覚悟を決めて、口に入れる。
次の瞬間。
怜の視界が白くなった。
「……っ」
言葉が出ない。
脳が理解を拒否している。
ミレイが楽しそうに笑った。
「顔!」
指差す。
「すごい顔してる!」
完全に娯楽になっていた。
そして。
三度目。
干し肉。
四度目。
謎の漬物。
五度目。
香草の塊。
ここまで来て。
怜は。
ついに。
立ち止まった。
石畳の上で。
静かに。
ゆっくりと。
マーラを見上げる。
「……マーラさん」
声は弱々しい。
「はい」
軽い返事。
「特訓って……」
怜は言った。
最後の力を振り絞って。
「言いましたよね」
一拍。
「はい」
即答。
そして。
にっこり笑う。
「だから特訓だよ」
沈黙。
怜の思考が止まる。
「……え?」
「この世界で生きるならさ」
マーラは指を立てた。
「食事は重要」
真顔。
完全に本気の顔。
「食べられないと死ぬ」
正論だった。
非常に。
腹立たしいほど。
正論だった。
その時。
背後から声がした。
「マーラ殿!」
振り向く。
そこにいたのは。
がっしりした体格の男。
年齢は三十前後。
短く刈った黒髪。
整った軍服。
胸には階級章。
王立軍曹長。
「おお」
マーラが手を振る。
「ガレス」
親しげな呼び方。
男は笑った。
「ちょうど良かった」
誇らしげに胸を張る。
「今日は妻がな」
一拍。
「料理を作ったんだ」
沈黙。
怜の背筋に、冷たいものが走った。
本能が警告している。
これは。
危険だ。
非常に。
危険だ。
「新婚なんだよ」
マーラが小声で言う。
楽しそうに。
「張り切ってるらしい」
嫌な予感しかしない。
数分後。
彼らは一軒の家の前に立っていた。
新しい木の扉。
小さな庭。
窓には花。
幸せそうな家。
扉が開いた。
現れたのは。
若い女性だった。
栗色の髪。
優しい目。
柔らかな笑顔。
エプロン姿。
「いらっしゃい!」
明るい声。
とても。
とても。
良い人そうだった。
「今日は腕によりをかけました!」
その一言に。
怜の心臓が跳ねた。
食卓。
皿が並ぶ。
一つ。
二つ。
三つ。
そして。
最後の大皿。
布がかけられている。
女性が誇らしげに言った。
「メインディッシュです!」
ゆっくりと。
布が取られる。
次の瞬間。
怜の時間が止まった。
それは。
料理だった。
確かに料理。
だが。
見た目が。
色が。
形が。
そして。
存在感が。
説明不能だった。
紫。
緑。
茶色。
何かが混ざり合い。
とろりとした液体が皿の縁を伝っている。
中心には。
原形を留めていない何か。
湯気が立っている。
香りも。
立っている。
非常に。
力強く。
怜の脳が。
静かに。
そして確実に。
危険信号を鳴らした。
その瞬間。
怜の意識の中で。
警報が鳴り響いた。
メーデー。
メーデー。
こちら、怜。
状況は極めて危険。
繰り返す。
極めて危険。
視界が揺れる。
呼吸が浅くなる。
心拍数上昇。
戦闘時と同じ反応。
だが敵は。
目の前の。
料理。
識別不能の物体を確認。
色彩異常。
匂い強度、最大。
回避行動を推奨。
だが。
逃げ場はない。
周囲には。
期待の眼差し。
新婚の妻。
誇らしげな軍曹長。
楽しそうなマーラ。
全員が。
見ている。
マーラが。
にやりと笑った。
小声で。
囁く。
「最後の試練」
その一言で。
すべてが確定した。
メーデー。
メーデー。
こちら、怜。
支援を要請する。
ただちに支援を要請する。
繰り返す——
「さあ!」
妻が笑顔で言った。
「どうぞ召し上がってください!」
スプーンが。
怜の手に。
置かれた。
怜は思った。
これは。
戦いだ。
間違いなく。
命を懸けた。
戦いだ。
メーデー。
メーデー。
メーデー。




