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第27話 可能性

風が止んだ後もしばらく、怜は動けなかった。

身体は無事だった。

傷もない。

呼吸も戻っている。

だが、心だけが置き去りになっていた。

目の前で起きた出来事が、現実として処理できない。

圧倒的だった。

自分が必死に命を懸けて戦ってきた力。

そのすべてが、まるで子どもの遊びのように見えてしまうほどの差。


——勝てるはずがない。

その言葉が、胸の奥に沈んでいた。

膝に力が入らない。

立っているだけで精一杯だった。

マーラはそんな怜の様子を横目で見て、ふっと小さく息を吐いた。

「大丈夫?」

軽い声だった。

いつもと同じ調子。

戦場の直後とは思えないほど、気楽な響き。

怜は答えられなかった。

大丈夫ではない。

だが、何がどう駄目なのか言葉にできない。

視線だけが、地面を彷徨う。

そこには、何も残っていなかった。

先ほどまで確かに存在していたはずの敵。

あれほどの魔力。

あれほどの脅威。

それが、跡形もなく消えている。

「……すごいですね」

ようやく絞り出した言葉は、あまりにも素朴だった。

マーラは肩をすくめた。

「まあね」

軽く笑う。

「慣れだよ、慣れ」

冗談めいた口調。

だが、その一言の裏に積み重なった時間の重さを、怜は感じ取っていた。

沈黙が落ちる。

怜は拳を握った。

震えていた。

恐怖ではない。

悔しさでもない。

——無力。

その感覚だった。

「……私、」

声がかすれる。

「何もできませんでした」

視線を上げることができない。

「迷って。

 判断を間違えて。

 時間を与えてしまって」

胸の奥が締め付けられる。

「もし、あの時——」

言葉が続かない。

もし、自分が躊躇わなければ。

もし、すぐに動けていれば。

街を危険にさらすことはなかったかもしれない。

誰かが死んでいたかもしれない。

その可能性が、重くのしかかる。

マーラはしばらく黙っていた。

怜の言葉を遮らず、否定もせず。

ただ、静かに聞いていた。

やがて、ぽつりと言う。

「うん」

短い相槌。

責める響きはない。

「迷ったんだよね」

怜は小さく頷いた。

「はい」

「そっか」

マーラは少しだけ考えるように視線を上げ、それから軽く笑った。

「いいじゃん」

あまりにもあっさりした言葉だった。

怜は顔を上げる。

「……え?」

「迷うのは普通」

さらりと言う。

「だって、もともと人だったんでしょ。ああいうの」

その一言が、胸に刺さる。

怜は答えられない。

マーラは続ける。

「躊躇わないほうが、ちょっと危ないかな」

冗談のように言うが、声は静かだった。

「でもさ」

そこで、マーラは怜をまっすぐ見た。

その目には、いつもの軽さとは違う真剣さがあった。

「ちゃんと動いたじゃん」

怜の呼吸が止まる。

「風、使ってたでしょ」

思い出す。

最初の一撃。

援護。

そして、最後まで立っていたこと。

「怖かったのに」

マーラは言った。

「逃げなかった」


沈黙。


その言葉は、思っていた以上に重かった。

怜の胸の奥で、何かがわずかに動く。

だが。

それでも。

「……でも」

怜は首を振った。

「マーラさんみたいには、なれません」

正直な言葉だった。

あの力。

あの判断。

あの精度。

あれは別の存在だ。

自分とは違う。

そう思っていた。

マーラは、ふっと笑った。

そして。

何でもないことのように言った。

「なれるよ」

怜は目を見開いた。

「え……?」

マーラは肩をすくめる。

「怜、あんたと私の魔力波長ってさ」

少し間を置く。

「すごく近いんだよね」

空気が止まった。

怜は言葉の意味を理解するのに時間がかかった。

魔力波長。

それは、術者の根本的な性質。

才能。

適性。

そして——到達できる領域。

「だからさ」

マーラは続ける。

本当に軽い口調で。

「鍛えれば、同じようなことができるようになるはず」

冗談のように。

だが、その声には確信があった。

怜は何も言えなかった。


胸の奥で、何かが静かに灯る。

小さな。

本当に小さな。

だが確かな光。

可能性。

その言葉が、初めて現実味を持って響いた。

日本に帰れるかは分からない。

この世界に来た理由も。

帰る方法も。

まだ何一つ分かっていない。

だが。

もし。

ここで生きていくのだとしても。

陰陽師として。

戦う者として。

強くなれる可能性があるのなら。

それは。

確かな収穫だった。

怜はゆっくりと息を吐いた。

胸の奥に残っていた重さが、わずかに軽くなる。

「……ありがとうございます」

小さく言う。

マーラは手をひらひら振った。

「お礼はいいって」

軽く笑う。

「代わりにさ」

少しだけ悪戯っぽく。

「明日から特訓ね」

怜は思わず固まった。

「……え?」

マーラはにやりと笑った。

「逃げないでよ?」

その言葉は、冗談半分。

だが半分は本気だった。


——同時刻。

王都・行政庁舎。


ブリギットは窓辺に立っていた。

夜の街を見下ろしている。

灯りが点々と並び、静かな日常が広がっている。

だが。

彼女の表情は険しかった。

右手をゆっくりと持ち上げる。

空気に触れる。

目を閉じる。

感じ取る。

境界。

この世界と。

あちら側。

ヴェイルとの境界は、封印されている。

幾重にも。

厳重に。

破られるはずがない。

だが。

「……おかしい」

小さく呟く。

微かな違和感。

ほんのわずかな。

だが確実な。

綻び。

布が裂ける前のような。

糸がほつれる前のような。

そんな感覚。

ブリギットの目が細まる。

「誰かが……触れている」

低い声。

確信に近い予感。

遠く。

見えない場所で。

何かが動いている。

静かに。

確実に。

そして。

取り返しのつかない方向へ。

夜の空は、何事もないかのように静かだった。

だが。

世界は。

確実に。

軋み始めていた。

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