第25話 見抜くもの
「……貸して?」
マーラの言葉は、あまりにも自然で、あまりにも場違いだった。
刃を突きつけられた少女。
取り囲む敵。
床に刻まれた魔術式。
そして、背後に感じる人型のヴェイルの気配。
逃げ場はない。
猶予もない。
そんな状況の中心で、彼女はまるで日常の延長のような口調で言ったのだ。
「風神を」
怜は目を見開いた。
「……風神を、ですか」
思わず聞き返していた。
マーラは頷く。
いつもの軽い調子のまま。
「うん。ちょっと借りる」
まるで工具でも借りるような言い方だった。
だが、それが意味することは理解している。
銘を持つレガリアは、持ち主以外には扱えない。
適性がなければ、そもそも起動すらしない。
それはこの世界の常識であり、戦場の前提だった。
「……無理です」
怜の口から、反射的に言葉が出た。
「風神は、私の——」
言いかけて、止まる。
マーラがこちらを見ていた。
その視線は静かで、冗談の色がまったくない。
「怜」
短く呼ぶ。
「時間がない」
周囲では敵がじりじりと間合いを詰めている。
少女の喉元には、まだ刃が当てられていた。
「信じろ」
それだけだった。
説明もない。
理屈もない。
ただ、命を預けろと言っている。
怜の胸が強く脈打つ。
思い出すのは、先ほどの戦闘だった。
無銘の投げナイフを起点に、住民を巻き込まないように戦場を整えた判断。
現地にあったレガリアを即座に使い分け、一騎当千の動きで敵を制圧した技量。
そして、自分の失敗を責めなかった態度。
(この人は)
危険な場所に、必ず自分から入る。
逃げない。
嘘もつかない。
怜は深く息を吸い込み、ゆっくり吐いた。
迷いは消えていない。
だが、決断はできる。
「……お願いします」
両手で、風神を差し出した。
鞘ごと。
自分の命の半分のような重みを、手放す。
マーラはそれを受け取った。
ためらいもなく、自然な動作で。
「ありがと」
軽く言って、目を閉じる。
次の瞬間。
空気が、静かに沈んだ。
——風。
広大な蒼の空間が広がっていた。
果てのない空。
止まることのない気流。
その中心に、一振りの刀が立っている。
鞘に収まったまま。
だが、明確な意思を持って。
「……お前が」
低い声が響いた。
誇り高く、鋭い声。
「我が主ではないな」
風神。
その存在が、直接語りかけてきている。
マーラは肩をすくめた。
「そうだね。借りただけ」
気軽な返事だった。
しかし次の瞬間、風が荒れ狂う。
拒絶。
反発。
威圧。
「触れるな」
空間そのものが震えた。
「主の許しなく、我に手を伸ばすとは——」
マーラの表情が変わる。
戦場の顔。
そして。
「黙れ」
低く、鋭く言い放った。
同時に、膨大な魔力が流れ込む。
圧倒的な量。
しかし暴れない。
濁らない。
乱れない。
ただ、正確に。
制御されたまま。
風神を押さえ込む。
「主は許した」
一歩踏み出す。
「だったら従え」
言葉は短い。
だが、そこには数えきれない戦場を生き延びてきた重みがあった。
風が止まる。
沈黙。
やがて。
刀が、わずかに震えた。
「……面白い」
低く、興味を帯びた声。
「主以外に、我を抑え込んだ者は初めてだ」
マーラは小さく笑った。
「じゃあ、ちょっと借りるよ」
刀が応じた。
現実。
マーラの目が開いた。
ゆっくりと鯉口を切る。
シャッ
刃が抜かれた瞬間、空気が変わった。
風が生まれる。
軽く、鋭く、透明な圧力。
敵の男が目を見開いた。
「な——」
言葉が終わる前に、マーラは踏み込んでいた。
ただ一歩。
そして。
横薙ぎに振る。
それだけ。
だが、次の瞬間、音が消えた。
空間が裂けた。
眷属。
武装した男たち。
壁。
床。
すべてが、一筋の線に沿って切断される。
爆発もない。
轟音もない。
ただ、静かに。
正確に。
必要なものだけが、消えた。
残されたのは。
少女。
ただ一人。
怜は息を呑んだ。
圧倒的な破壊。
しかし、周囲の建物も、市民も、何一つ傷ついていない。
(これが……)
力。
そして。
制御。
マーラはゆっくりと刀を下ろした。
戦闘は終わった。
そう思えた。
怜は少女に近づいた。
「大丈夫ですか」
膝をつき、手を伸ばす。
少女が顔を上げた。
涙で濡れた目。
震える身体。
助けを求める表情。
怜の胸が緩む。
その時だった。
背後で、風がわずかに揺れた。
マーラの声が、静かに響く。
「下がれ」
短い警告。
怜が振り返るより早く。
刃が動いた。
シュン
乾いた音。
次の瞬間。
少女の身体が、静かに二つに分かれた。
血が床に広がる。
怜の思考が止まる。
「……え」
声が漏れた。
理解が追いつかない。
しかし。
床に落ちた肉体が、崩れ始めた。
皮膚が溶ける。
骨が黒く変色する。
内部から、異質な光が漏れる。
そして。
人の形が崩れ。
現れた。
——歪んだ核。
脈動する、異形の中心。
人ではないもの。
ヴェイル。
それが、本体だった。
怜の背筋が凍りつく。
マーラは静かに刀を収めた。
そして。
淡々と言った。
「最初から、あれが本体」
短い説明。
それだけだった。
怜は言葉を失った。
自分は助けようとしていた。
守ろうとしていた。
だが。
それは。
敵だった。
完全に。
見抜けていなかった。
マーラは振り返る。
表情はいつも通り。
少しだけ、軽い笑み。
「だから言っただろ」
肩をすくめる。
「戦場は、見抜いたほうが勝つ」




