第1話 風は境界を越えた
四月の東京は、風がやわらかい。
放課後。
校門を出た高円怜は、肩に掛けた鞄を少しだけ引き寄せた。
制服のブレザーが風に揺れる。
どこにでもいる高校生の帰り道。
だが、彼女の歩き方はわずかに違った。
重心が低い。
足音が静か。
周囲の気配を無意識に拾っている。
祖母に言わせれば――
「油断は習慣になる」
それが、怜の育ち方だった。
住宅街に入る。
見慣れた道。
角のパン屋。古い神社。夕焼け。
そして。
違和感。
風が止まった。
怜の足が止まる。
一瞬の沈黙。
「……出て」
小さく言った。
誰に聞かせるでもない声。
だが、それで十分だった。
路地の奥。
塀の向こう側で、影が、歪んだ。
空気が濁る。
水面に油を垂らしたように、現実が揺れる。
次の瞬間。
それは形を持った。
人のようで。
人ではない。
腕が長すぎる。
顔が崩れている。
皮膚が黒い霧のように揺れている。
妖。
自然に生まれる化け物。
本来は、もっと静かに現れるもの。
怜はため息をついた。
「今日は当番じゃないんだけど」
軽く肩を回す。
だが目は笑っていない。
鞄を地面に置く。
静かに。
腰に手を伸ばす。
抜刀。
金属音が、短く鳴った。
刃は細身。
実戦用に研ぎ込まれた刀。
祖父の代から使われてきたもの。
名を――
白雨
怜は一歩踏み出した。
地面を蹴る。
速い。
人間離れした速度ではない。
だが、訓練された速さだった。
斬る。
黒い腕が落ちた。
抵抗はある。
硬い。だが、斬れる。
(いつものより、少し重い)
そう判断した。
つまり。
少し強い。
あやかしが唸る。
空気が震える。
もう一体。屋根の上。
さらに二体。庭の塀の向こう。
影が増えた。
「……群れ?」
珍しい。
通常、単体で出る。
今日は違う。
まして、この住宅街では。
しかも。
強い。
怜は呼吸を整える。
姿勢を低く。
左足を前。
視線は中心。
嫌な感覚があった。
数が多い。
強さも違う。
そして――
現れ方が、不自然だった。
次の瞬間。
四体同時に動いた。
速い。
怜は横に跳ぶ。
回転。
斬撃。
一体が崩れる。
だが。
残り三体。
距離が近い。
腕が振り下ろされる。
怜は反射的に刀を上げた。
受ける。
金属が軋む。
嫌な感触。
(まずい)
衝撃。
腕に重さ。骨まで響く。
指の感覚が、消えた。
そして。
パキン
乾いた音。
小さい。
だが。
決定的。
刃の先が地面に落ちた。
怜は一歩下がる。
手元を見る。
残っているのは。
半分の刀。
白雨が。
折れていた。
胸の奥が、冷えた。
初めてだった。
刀が折れたのは。
呼吸が浅くなる。
額に汗。
視界の端。
影が動く。
距離がない。
時間もない。
逃げるか。
戦うか。
その瞬間。
怜の視界に入った。
庭の奥。
白い壁。
古い瓦。
蔵。
子どもの頃から知っている。
何度も掃除を手伝った。
中に何があるかも、知っている。
祖母の言葉が、頭をよぎる。
「最後の手段よ」
「使わないで済むなら、それが一番いい」
だが。
今は。
他に手段がない。
怜は走った。
庭を横切る。
背後で地面が砕ける。
振り向かない。
蔵の前。
鍵を取り出す。
差し込む。
回す。
開いた。
中は薄暗い。
木の匂い。
油の匂い。
古い時間の匂い。
壁際に。
それはあった。
刀。
布に包まれ、静かに置かれている。
他の武具とは、存在感が違う。
空気が。
そこだけ重い。
怜は近づいた。
手を伸ばす。
一瞬だけ。
ためらう。
だが。
やめない。
布を外す。
刃が現れた。
淡い銀色。
風が揺れた。
柄を握る。
重い。
だが、持てる。
その瞬間。
声がした。
『ようやく、だな』
怜の手が止まる。
男の声。
落ち着いた声。
どこか楽しそうな声。
『遅かったじゃないか』
「……誰」
沈黙。
一拍。
そして。
『俺だ』
刀が、わずかに震えた。
風が巻く。
蔵の中で。
ありえない動き。
『名は――』
一瞬の静寂。
『風神』
次の瞬間。
蔵の扉が吹き飛んだ。
妖が突入してくる。
床が砕ける。
壁が軋む。
距離。
三歩。
怜は構えた。
ぎこちない。
だが、迷いはない。
踏み込む。
振る。
その瞬間。
風が。
爆発した。
空気が裂ける。
衝撃が広がる。
音が消える。
一閃。
すべてが。
止まった。
妖が。
崩れた。
一体。
二体。
三体。
塵になった。
静寂。
そして。
異変。
風が止まらない。
刀が震える。
空気が渦巻く。
地面が揺れる。
(……まずい)
力が集まってくる。
制御できない。
風が一点に圧縮される。
光。
爆発。
世界が。
白く。
消えた。
風だけが。
残った。
そして。
境界が。
切れた。




