第12話 撤退戦
「急ぐ」
ブリギットの声が短く響いた。
出口は見えている。
だが。
遠い。
背後から迫る音。
水をかき分ける音。
壁を削る音。
そして。
重い足音。
ドン。
ドン。
ドン。
床が震える。
空気が震える。
胸の奥まで震える。
怜は走っていた。
必死に。
息が苦しい。
肺が焼けるように痛い。
それでも足を止められない。
(追いつかれる)
振り返りそうになる。
だが。
振り返らない。
「距離三十!」
キアランが叫ぶ。
「維持しろ」
ブリギットが即答する。
隊形は崩れていない。
前方:ブリギット
中央:キアラン
側面:マーラ
後衛:ドナル
最後尾:怜
完璧な撤退陣形だった。
だが、限界は近い。
敵は多い。
残滓が壁を這い上がる。
天井から落ちる。
水面を滑る。
一体が跳び出した。
速い。
一直線。
狙いは。
怜。
心臓が跳ねた。
だが。
今度は。
足が動いた。
横へ。
そして。
反射的に。
怜の手が前に出た。
風が吹いた。
ほんの一瞬。
残滓の体が。
宙で止まった。
その瞬間。
拳が落ちた。
ドナルだった。
残滓の頭部が砕ける。
骨が砕ける音。
「走れ!」
短い命令。
怜は頷いた。
足が止まらない。
「……今のは」
ドナルが一瞬だけ眉をひそめた。
だが。
何も言わない。
そのとき。
横から。
別の影。
速い。
マーラが気付いた。
「右!」
叫ぶ。
だが。
遅い。
残滓が飛びかかる。
マーラは回避した。
完璧な動き。
だが。
次の瞬間。
足場が崩れた。
石が砕ける。
体勢が乱れる。
距離が詰まる。
爪が振り下ろされる。
避けきれない。
そのとき。
青い光が走った。
槍。
一直線。
キアランの突きだった。
関節部。
貫通。
残滓の動きが止まる。
マーラが息を吐いた。
「助かった」
軽い声。
だが。
額には汗が滲んでいた。
「借り一つ」
キアランが言う。
「覚えておく」
マーラが答える。
そのとき。
背後。
重い音。
止まった。
全員が感じた。
来る。
次の瞬間。
歪体が現れた。
巨大な影。
天井をこすりながら進んでくる。
先ほどの個体より。
明らかに。
強い。
空気が変わった。
圧力。
重さ。
存在感。
怜の呼吸が止まりかける。
(無理だ)
直感。
だが。
ブリギットは止まらない。
振り返らない。
ただ。
言った。
「出口まで二十」
短い。
正確。
そして。
ドナルが笑った。
「十分だ」
次の瞬間。
彼が止まった。
完全に。
足を止めた。
振り返る。
歪体と向き合う。
拳を握る。
骨が鳴る。
「先に行け」
低い声。
命令ではない。
覚悟だった。
怜の胸が締め付けられる。
だが。
ブリギットは迷わない。
「三秒」
短い。
カウント。
ドナルが笑った。
「十分だ」
次の瞬間。
彼が踏み込んだ。
拳が振り抜かれる。
衝撃。
歪体の体が揺れる。
止まる。
その一瞬。
全員が走った。
出口が近い。
光が広がる。
あと。
数歩。
そのとき。
背後で。
爆音。
ドナルの咆哮。
歪体の怒号。
石が砕ける音。
すべてが混ざる。
怜は振り返りそうになった。
だが。
振り返らない。
前だけを見る。
出口へ。
光へ。
そして。
外の空気が。
肺に流れ込んだ。
冷たい。
生きている。
その実感が。
体の奥まで染み渡った。
全員。
生きている。




