第103話 わずかなズレ
朝の訓練場は、まだ空気が冷えていた。
怜は木刀を構え、静かに呼吸を整える。足の位置、重心、視線の高さ――マーラに叩き込まれた基礎を、何度もなぞるように繰り返していた。
向かいには未央が立っている。
「行くで」
軽い声。
次の瞬間、踏み込み。
振り下ろし。
怜はそれを受け流す。
重くも軽くもない、いつも通りの手応え。
だが、続く動きで違和感が生まれた。
未央の肩が、わずかに動く。
(来る)
そう判断した瞬間には、もう木刀が横から来ていた。
――速い。
いや、違う。
怜は防いだ、はずだった。
だが。
「……あれ?」
気づけば、未央の木刀は防御の外にあった。
ほんのわずかに、軌道がズレている。
未央も、少しだけ首をかしげた。
「今の、なんか変やな」
「うん……」
怜も同じ違和感を覚えている。
もう一度、構える。
「もう一回いい?」
「ええで」
今度は、より丁寧に観る。
未央の動き。
足の入り。
肩の開き。
すべてを追う。
未央が動く。
その瞬間――
(……早い)
だが、それは速さというより。
“決まるのが早い”。
動きが、ほんのわずかに先に“決まっている”ように見える。
結果。
怜の受けは、また外された。
木刀同士が軽くぶつかり、離れる。
未央が眉を寄せる。
「……なんやろな、これ」
「ズラした?」
吾郎が横から聞く。
「いや、そんなつもりないで」
未央は首を振る。
彰が静かに言う。
「無意識の調整じゃないか」
「調整?」
「当たる前に、少しだけ軌道を変えてる」
未央は考え込む。
「そんな器用なことしてる気はせえへんけどな……」
怜は木刀を下ろし、少し距離を取る。
「でも、さっきからちょっとだけズレてる」
「うん」
未央も頷く。
「なんか、“ちょっとだけやりやすい”感じはある」
「やりやすい?」
「せやな」
未央は軽く手首を回す。
「来るのが分かる、まではいかんけど」
「なんとなく“間に合う”感じ」
曖昧な表現。
だが、嘘ではない。
吾郎が肩をすくめる。
「それ、単純に調子いいだけじゃないのか」
「そうかもしれん」
未央はあっさり言う。
深く考えていないようにも見える。
だが。
怜だけは、少しだけ気になっていた。
昼。
食堂はいつも通り賑やかだった。
皿の音、話し声、笑い声。
何も変わらない。
未央たちはいつもの席に座る。
食事を取りながら、何気ない会話をしていた。
その時。
未央がふと視線を動かした。
「……あ」
小さな声。
「どうした?」
吾郎が聞く。
「いや……」
未央は少し迷ってから言う。
「それ、倒れそう」
指差した先。
隣の席のコップが、机の端に寄っている。
次の瞬間。
誰も触れていないのに、コップがわずかに傾き、そのまま落ちた。
カラン、と軽い音。
「……」
一瞬遅れて、周囲が反応する。
「え、今の何?」 「手当たってた?」
未央は立ち上がってコップを拾う。
「大丈夫?」
何事もなかったように戻る。
席に座りながら、軽く笑う。
「たまたまやろ」
怜がじっと見る。
「……今、分かってた?」
「分かってたってほどでもないで」
未央は肩をすくめる。
「なんとなく、危なそうやなって思っただけ」
曖昧な言い方。
確信ではない。
ただの違和感。
吾郎が言う。
「それ、よくあるやつじゃないか?」
「かもしれん」
未央はあっさり頷く。
深刻さはない。
だが。
怜の中には、小さな引っかかりが残った。
夕方。
訓練も終わり、人が減っていく時間。
怜は廊下を歩いていた。
足音が近づく。
未央だ。
「まだ考えとるんか」
「……ちょっとだけ」
怜は正直に答える。
未央は横に並び、軽く笑う。
「気にしすぎや」
「そうかな」
「そうや」
即答だった。
「調子ええ時って、ああいうのあるやろ」
軽い言い方。
いつも通り。
だが。
「まあ、ちょっとだけ楽になった感じはあるな」
ぽつりと付け足す。
「楽?」
「動きがな」
未央は前を見る。
「ほんのちょっとだけ、噛み合う感じ」
それは強さの実感に近い。
だが。
違和感も混ざっている。
怜は少しだけ迷ってから言う。
「……無理しないでね」
未央は一瞬だけ目を細める。
そして。
「分かっとる」
短く返す。
そのまま歩き出す。
怜も並ぶ。
いつもの廊下。
いつもの帰り道。
変わらないはずの時間。
けれど。
ほんのわずかに、何かが噛み合い始めていた。
気づかない程度の差。
コンマ数秒にも満たないズレ。
それが、どこへ繋がるのか。
まだ、誰も知らない。




