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第102話 境界に触れるもの

 報告室の空気は、最初から重かった。


 フィン・オドハーティ大佐の報告は簡潔で、無駄がなかった。未分類領域の構造、歪体の性質、意思疎通可能な個体の存在、そして執行者との接触。

 それだけでも十分に異常だった。

 だが、それらはまだ「外側の情報」に過ぎない。


「――以上が、今回の観測結果だ」


 フィンは一度言葉を切った。

 記録官の筆が止まる。

 部屋にいる全員が、続きを待っていた。

 まだ終わっていない。

 そういう空気だった。

 フィンは一瞬だけ視線を落とし、すぐに上げる。

「補足がある」

 短い一言。

 それだけで、空気が変わる。


「隊員の一名に、境界適応の兆候を確認した」


 沈黙。

 音が消えたようだった。

「……誰だ」

 低い声。

 問いは分かっている。

 それでも、確認せずにはいられない。

 フィンは迷わない。


「天王寺未央」


 名前が落ちる。

 重く。

 確実に。

 部屋の空気が一段沈んだ。

「……どういう意味だ」

 別の声。

 冷静を保とうとしているが、完全ではない。

 フィンは説明する。

「未分類領域内にて、意思疎通可能な個体と接触」

「その際、対象より“境界に適応する可能性がある”と指摘された」

「根拠は」

「不明」

 即答だった。

「だが、当該個体は歪体と通常個体の差異を明確に認識していた」

「情報の信頼性は高いと判断する」


 沈黙。

 重い。

 今度は長い。


「……進行度は」

「現時点では変質は確認されていない」

 フィンは淡々と続ける。

「ただし、“兆候”という表現を用いた以上、進行の可能性は否定できない」

「経過観察が必要だ」

 記録官の手が、わずかに止まる。

 書くべきか、一瞬迷った。

 それほどの内容だった。

 部屋の奥から、別の声が上がる。

「……排除は」

 静かだが、はっきりした言葉。

 誰もその発言を責めない。

 それが、この場の現実だった。

 フィンは即答しない。

 ほんの一瞬だけ、間を置く。

 だが、それだけだ。

「現時点では不要」

 はっきりと言い切った。

「戦力として有用であり、変質の進行も確認されていない」

「過剰反応はリスクを増やす」

 理屈。

 感情はない。

 だが。

 わずかに。

 守っているようにも聞こえた。

「……監視は」

「必要」

 フィンは頷く。

「ただし、過度な拘束は推奨しない」

 沈黙。

 議論は、それ以上深くならなかった。

 今はまだ、決定を下す段階ではない。

 だが。

 “認識された”。

 それだけで十分だった。



 廊下。

 未央は壁にもたれていた。

 腕を組み、視線は少しだけ下を向いている。

 足音が近づく。

 怜だった。

「……終わった?」

「終わったで」

 未央は顔を上げないまま答える。

 少しだけ間があって、怜が隣に立つ。

「……聞いた」

 未央は小さく笑う。

「やろな」

 軽く。

 いつも通りに見えるように。

「未央」

 怜の声は、少しだけ強い。

「それ、本当に……」

「分からん」

 未央は即答した。

「何も起こっとらんしな」

 それは事実だった。

 今はまだ。

 だが。

「でもな」

 未央はゆっくりと顔を上げる。

「おもろいやん」

 怜が息を呑む。

「未央……」

「強くなれる可能性があるんやろ?」

 笑う。

 いつもの調子で。

 だが、その奥は違う。

「ほな、やること一つや」

 一歩、前に出る。

「強なるだけや」

 同じ言葉。

 だが。

 今度は重みが違う。

 怜は、すぐに言葉を返せなかった。

 止めるべきか。

 それとも。

 信じるべきか。

 答えが出ない。

 その間に、未央はもう歩き出していた。


 少し離れた場所で、フィンがその様子を見ていた。

 表情は変わらない。

 だが。


「……選ぶ気か」


 小さく呟く。

 止めることはできる。

 命令すればいい。

 だが、それはしない。


「……なら、最後まで見届ける」


 それが、フィンの判断だった。

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