第101話 帰還線上
未分類領域の出口は、すぐそこに見えていた。
歪みは徐々に薄れ、外界の光がにじむように差し込んでいる。
踏み込めば戻れる――そう判断できる距離だった。
だが、未央の足はそこで止まる。
理由は、感覚だった。
嫌な静けさ。
空気の密度が、わずかに変わる。
「……止まれ」
フィンの声が重なる。
四人は同時に足を止めた。
振り返るまでもなく、気配がある。
背後の歪みが、音もなく裂けた。
現れたのは、人間とほとんど変わらない輪郭を持つ存在だった。歪みは最小限。姿勢は自然で、視線には明確な意志がある。手にした武器は、戦うための形をしていた。
――執行者。
未央は小さく息を吐く。
「……来よったな」
相手は一歩、踏み出した。
距離を測るように。
無駄なく。
「観測は済んでいる」
静かな声だった。だが、響きは明確だ。
「接触も確認した。随分と自由に動いたな」
未央が肩をすくめる。
「そらまあ、好きにやらせてもろたわ」
執行者はわずかに目を細める。
「それが許される領域ではない」
フィンが前に出る。
動きは小さいが、立ち位置が変わるだけで空気が締まる。
「ここで何をするつもりだ」
執行者は少し考えるように間を置いた。
「確認だ」
「価値の」
吾郎が眉をひそめる。
「またその話かよ……」
執行者は視線を吾郎に向けることなく続ける。
「お前たちは接触した」
「住人と」
その一言で、場の温度がわずかに下がる。
フィンは変わらず応じた。
「そうだ」
「それがどうした」
執行者はゆっくりと答える。
「意味はある」
「だが、それだけでは価値にならない」
未央が一歩前に出る。
「ほな、何持って帰ったら価値なん」
執行者は迷わない。
「結果だ」
「情報でもいい。干渉でもいい。破壊でもいい」
短いが、明確な基準だった。
「いずれかを持ち帰るなら、見逃す理由になる」
未央は小さく笑う。
「ほな、今回はどうなん」
ほんのわずか。
執行者の動きが止まる。
判断している。
その“間”があった。
「……判断中だ」
その言葉に、フィンの視線がわずかに鋭くなる。
「時間をかける理由はないはずだ」
「そうだな」
執行者は頷く。
そして。
「ならば――」
一歩、踏み込む。
だが。
未央の目が細くなる。
(……遅い)
踏み込みは正確だが、わずかに“間”がある。
詰め切る意思が、薄い。
フィンは、その違和感を即座に掴んだ。
「下がれ」
短く命じる。
同時に、空気が変わった。
足元から、静かに霧が立ち上る。
最初は薄い。
だが、次の瞬間には濃度を増し、視界の端から世界を侵食していく。
「……覆え、王の星雲」
低い声。
命令は、それだけだった。
霧が応じる。
空間を満たす。
視界が曖昧になる。
距離が狂う。
位置がずれる。
認識が、歪む。
執行者の視線が一瞬だけ外れた。
「……霧か」
落ち着いた声。
だが、その次の一言はわずかに遅れた。
「認識阻害……いや、座標そのものをズラしているな」
分析している。
追撃ではない。
未央は確信する。
(来る気ないな、こいつ)
「抜ける」
フィンの指示。
未央は即座に動いた。
霧の中を走る。
方向感覚は狂う。
だが、外の光だけは分かる。
「直進や!」
怜が続く。
吾郎と彰が後ろを抑える。
背後で気配はある。
だが。
詰めてこない。
――詰められる距離なのに。
未央は振り返らない。
そのまま歪みへ踏み込む。
光が弾ける。
音が戻る。
重さが戻る。
外だ。
全員が抜ける。
最後にフィン。
歪みが、静かに閉じた。
完全に断絶された。
静寂。
数秒、誰も動かない。
「……追ってこんな」
吾郎が息を吐く。
「境界外には出ない」
フィンが答える。
だが、その目は細いままだ。
「……違うな」
「何がや」
未央が聞く。
「追えた」
短い言葉。
「だが来なかった」
沈黙。
怜が小さく言う。
「……逃がされた?」
フィンは頷かない。
否定もしない。
「可能性は高い」
彰が低く続ける。
「なぜ」
誰も答えない。
未央は小さく笑う。
「気まぐれちゃうか」
「……そういう類ではない」
フィンが即座に否定する。
だが、その理由までは言わない。
言えない。
王都。
報告室。
フィンの報告は簡潔だった。
「未分類領域内部にて、意思疎通可能な個体を確認」
「歪体との差異あり」
「執行者とも接触。会話成立」
室内の空気が変わる。
「一定以上の情報取得に対して排除判断」
「ただし」
わずかに間を置く。
「追撃なし」
静かな一言。
「意図的に見逃された可能性あり」
沈黙が落ちる。
廊下。
未央が壁にもたれる。
「……ややこしいな」
怜が頷く。
「うん……」
未央は笑う。
軽く。
だが、目は真っ直ぐ。
「ほな」
一歩踏み出す。
「強なるだけや」
その声には、迷いがなかった。




