第100話 異質の意味
「境界に」
その一言は、静かだった。声を荒らげたわけでもないのに、妙に重く、場の空気を深く沈ませる力があった。
未央は相手を見たまま、すぐには言葉を返さなかった。
怜も吾郎も彰も、それぞれに反応を失っている。
最初に動いたのはフィンだった。
ほんのわずかに立ち位置を変え、未央の前に出すぎないようにしながら、相手の言葉を受け止める。
「どういう意味だ」
問いは短い。だが鋭い。
ヴェイルの住人は、フィンではなく未央を見ていた。
顔と呼べるものは曖昧なのに、それでも視線が向いていることだけは分かる。不気味というより、奇妙な確かさがそこにはあった。
「お前は、こちら側に触れても崩れにくい」
そう言って、相手は少しだけ首を傾けた。
「まだ浅い。だが、兆候がある」
「ちょっと待ってや」
未央がようやく口を挟む。
「崩れにくいって何や。私は人間やで」
「そうだ」
即答だった。
「今は」
吾郎が顔をしかめる。
「いや、その言い方やめろよ」
怜の表情も硬いままだった。
「未央が変質する、みたいに聞こえる」
「変質は、すでに始まっているものもある」
その返答に、今度はフィンが反応した。
「……境界適応か」
ヴェイルの住人はわずかに頷いた。
「人間は境界を異物とみなす。だから拒絶する。だが一部は違う。拒絶しきれず、取り込み、馴染み、変わる」
未央は小さく息を吐いた。怖がってはいない。ただ、自分の内側を勝手に見透かされたような気分の悪さはあった。
「それ、私が強くなるって話なんか」
「単純ではない」
「便利な力が手に入るとか、そういう話でもなさそうやな」
「代償がある」
その答えだけは、やけにはっきりしていた。
フィンが一歩踏み込む。
「代償とは何だ」
相手は少し黙った。答えるべきか、測っているようだった。
「人間としての均衡が崩れる」
静かな言葉だったが、怜が思わず未央の方を見た。
「……未央」
「そんな顔せんでも、まだ何も起こっとらんよ」
未央は苦笑してみせたが、胸の内はまったく穏やかではない。アーウィン中将の雷を見て、自分はまだまだ足りないと思った。その焦りは本物だった。だが、だからといって、人間でなくなることを望んだ覚えはない。
ヴェイルの住人は、未央の沈黙を肯定とも否定とも受け取らなかった。ただ事実だけを並べるように言葉を続ける。
「境界は、拒むだけの場所ではない。飲み込む場所でもある」
「それで歪体が生まれるんか」
未央の問いに、相手はすぐ頷いた。
「適応できず、維持もできず、壊れたものが歪体になる」
そこまで聞いて、怜が口を開いた。
「じゃあ、あなたたちは?」
その存在は、ほんの少し考えてから答えた。
「維持できたものだ」
「一般住人、ってこと?」
「近い」
「じゃあ、バルドルも?」
吾郎の問いに、相手の輪郭がわずかに揺れた。感情に似た反応だった。
「執行者か」
その呼び方に、全員の意識が少しだけ変わる。バルドル。あの男は確かに、目の前の存在とも歪体とも違う。武器を使い、言葉を持ち、戦術を理解していた。
「執行者は、役目を与えられたものだ」
「役目?」
フィンが聞き返す。
「境界の外に出るための形を与えられたもの。戦うために整えられたもの」
吾郎が低く唸る。
「じゃあ、一般住人と執行者は別物なのか」
「同じヴェイルだ」
相手は否定した。
「ただ、向きを変えられた」
未央はその表現に少しだけ引っかかった。
「向き?」
「生きるための形と、侵すための形は違う」
その言葉に、フィンの目が鋭くなる。
「侵すため、と言ったな」
「そうだ」
「お前たちは侵食を望んでいるのか」
少しの沈黙のあとで、相手は答えた。
「望むものもいる。望まないものもいる」
「単一ではない、ということか」
「そうだ」
その返答はあまりにも自然だった。人間側が思っていた以上に、ヴェイルという存在は一枚岩ではない。フィンはそれを表情に出さなかったが、間違いなく重要情報として受け取っていた。
「和平を望む個体もいる、という話は本当か」
フィンがそう問うと、相手はまた少し首を傾けた。
「和平」
言葉の意味を舌の上で転がすような間がある。
「争わずに済むなら、それを望むものはいる」
「だが、全体ではない」
「全体ではない」
繰り返される答えは、妙に誠実だった。気を遣って曖昧にしているのではない。知っている範囲だけを正確に伝えている、そんな印象がある。
未央はふと、フィンの手の中にある揺らぐ物質に目を向けた。
「それ、何のつもりで渡したんや」
相手もその視線を追うように見た。
「印だ」
「何の?」
「接触の」
怜が慎重に言葉を選びながら尋ねる。
「敵意がないって示した、ってこと?」
「近い」
「それ、持ってると何かあるんですか」
「追われにくくなる」
その返答に、今度は全員が反応した。
「それ、最初に言えや」
未央が眉を上げると、相手はまたわずかに首を傾ける。
「今、言った」
「せやけど!」
思わず強く返してから、未央は自分でも少しおかしくなって息を漏らした。怜も緊張の中で小さく笑いそうになっている。こんな場所で、こんな相手に、こんな調子で話していること自体が奇妙だった。
フィンはその印を見下ろしたあと、慎重に懐へ収めた。
「有効範囲は」
「近距離」
「持続は」
「長くはない」
問答は淡々と続く。その最中、彰が静かに周囲へ目を配っていた。何かを気にしている顔だった。フィンも気づいたのか、短く訊く。
「どうした」
「……気配が増えている」
その言葉に場の空気が変わった。
未央もすぐに分かった。さっきまでは遠くに散っていた気配が、少しずつこちらへ寄ってきている。ただし、それは殺気ではない。関心だ。見知らぬものを見に集まる視線に近い。
怜が小さく息を呑む。
「囲まれてる?」
「半分正解だ」
フィンが低く答える。
「集まられている」
吾郎が嫌そうに周りを見る。
「それ、あんまり変わらなくないか」
「変わる」
そう答えたのはヴェイルの住人だった。
「見るだけのものも多い」
「でも、全部がそうとは限らへんやろ」
未央の問いに、相手は否定しなかった。
「限らない」
フィンがすぐに判断する。
「ここで長居はしない方がいいな」
その判断に、相手も異を唱えなかった。
「賢明だ」
「また接触できるか」
フィンの問いに、相手は少しだけ未央を見て、それから答えた。
「お前たち次第だ」
「曖昧やな」
「境界は常に揺れている」
つまり約束はできない、ということだろう。
未央は一歩前に出た。
「最後に一個だけ聞くわ」
相手は視線を向ける。
「私のこと、異質や言うたな。そんで、境界に適応する可能性があるとも言うた。じゃあ、それは止められるんか」
空気が静まった。フィンも怜も吾郎も彰も、誰も口を挟まない。
その存在は、しばらく考えてから答えた。
「選べる段階なら、止められる」
「……選べへん段階に行ったら?」
「流される」
率直すぎる言葉だった。
未央はゆっくり頷く。
「ほな、まだ間に合うんやな」
「そうだ」
その答えだけは、ほんの少しだけ救いに聞こえた。
フィンが短く言う。
「撤収する」
全員が頷く。だが、未央だけはその場を離れる前に、もう一度だけ相手を見た。
「名前、ないんか」
その問いに、相手は初めてはっきりと迷ったように見えた。
「ある」
「ほな、教えてや」
「今は不要だ」
そう言って、その存在は一歩下がる。距離が開くと同時に輪郭が少しずつ周囲の歪みに溶け始めた。
「次があれば、その時に」
最後にそう残し、相手は静かに姿を曖昧にしていく。完全に消えたわけではない。ただ、この領域そのものに戻ったように見えた。
しばらく誰も口を開かなかった。最初に息を吐いたのは吾郎だった。
「……なんか、とんでもない話になってきたな」
「今さらやろ」
未央はそう返したが、その声はいつもより少しだけ低い。怜は未央の横顔をちらりと見て、何か言いかけてやめた。今はまだ、軽い言葉で触れていい話ではないと分かったからだ。
フィンは歩き出しながら、短く告げる。
「今日の情報は外へ持ち帰る。ただし、内容の扱いは慎重にする」
「信じてもらえるんかな」
吾郎の疑問に、フィンは振り返らず答えた。
「信じるかどうかは上の判断だ。だが、俺は報告する」
彰が静かに続ける。
「未央の件も?」
「当然だ」
その言葉に、未央は思わず顔をしかめた。
「いや、当然みたいに言わんといてくれる?」
「隠す理由がない」
「あるやろ。だいぶ嫌なんやけど」
「嫌でも報告する」
きっぱりした声音に、未央は大きくため息をついた。
「ほんま融通きかへんな……」
「軍人だからな」
吾郎がぼそりと挟むと、怜がわずかに肩の力を抜いた。
領域の出口へ向かう道は、入ってきた時よりも長く感じられた。遠くで揺らぐ気配はまだ彼らを見ていたが、襲ってくるものはなかった。フィンの持つ印の効果もあるのかもしれないし、単に今回はそうだっただけかもしれない。どちらにせよ、確かなことが一つある。
境界の向こうには、ただ討つべき敵だけがいるわけではない。
生き、壊れ、役目を与えられ、選び、揺らぐ存在たちがいた。
そしてその中で、未央だけが「異質」と呼ばれた。
領域の歪みが薄れ、外の空気が肌に触れた時、未央はようやく小さく呟いた。
「……めんどくさいことになったな」
怜が隣で、少し迷ってから言う。
「うん。でも、まだ決まったわけじゃない」
「せやな」
未央は苦笑する。
「まだ、や」
その言葉が、自分に向けたものだということは、誰にも言わずとも分かっていた。




