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第99話 境界の内側

 未分類領域に足を踏み入れた瞬間、周囲の音が不意に遠のいた。


 完全に消えたわけではない。ただ、何か薄い膜を一枚隔てた向こう側に押しやられたように、世界との距離が少しずれた感覚があった。

 足の接地はわずかに遅れ、視界は微妙ににじむ。近いはずのものが遠く見え、遠いはずのものがすぐそばにあるようにも感じられる。


 その曖昧さに怜が息を詰めたが、フィン・オドハーティ大佐は落ち着いた声で言った。

「落ち着け。ズレているだけだ。慣れる」


 その声だけが妙にはっきりと聞こえる。未央は一度だけ深く息を吸い、前へ一歩踏み出した。

「……おるな」

 目の前には何もないように見える。だが、確かに何かがいた。気配が空間に溶け込み、輪郭を持たないままそこに混ざっている。


 フィンに問われ、彰が目を細めて答える。

「ぼんやりと、だけど。数もいる」

 吾郎も同じ方向を見つめたまま頷いた。

「でも……変だな。敵っぽくない」


 その言葉の直後、前方の歪みがふっと揺れた。人型だった。

 歪んだ輪郭を引きずるようにして、何かがゆっくりと歩いている。

 距離感が狂っているせいで妙に遠く感じるが、動きは見て取れた。身体はふらつき、腕は不自然に揺れ、首の角度も一定ではない。


「……歪体やな」

 未央がそう呟くと、フィンが低く同意する。

「間違いない。第二種、歪体(アベレーション)だ」


 バルドルの言葉が頭をよぎった。

 変質してしまった人型。

 意思疎通はほとんど取れない。

 理性を保てず、壊れたように振る舞う存在――その説明にぴたりと重なる姿だった。


 その歪体が、こちらを見た。目はない。それでも見られたことは分かる。

 そして次の瞬間、先ほどまでの緩慢な動きが嘘のように、歪体は一気に距離を詰めてきた。


「来るで」


 未央が前に出る。振るわれた腕の軌道は読みづらく、不自然な角度で滑り込んでくる。

 未央はそれを弾いたが、予想以上の重さに眉をひそめた。

「力、あるな……!」

 横から彰が蹴りを入れ、歪体の体勢を崩す。その隙を逃さず、吾郎が拳を叩き込んだ。鈍い衝撃が響き、歪体の輪郭が大きく揺れる。

 だが、それでも倒れない。

「しぶといな!」

「核が見えへん!」

 未央の声に、フィンが短く命じた。

「散らせ」


 未央は即座に雷を走らせた。細く鋭い電流が歪体を貫いた瞬間、その輪郭は維持を失ったように崩れ、霧が散るように空間へ溶けていく。


 吾郎が息を吐く。

「……倒した、か」

「いや」

 フィンは周囲への警戒を解かないまま答えた。

「“維持できなくなった”だけだ」

 その表現に怜が小さく眉を寄せる。

「……これが歪体」

「意思がないっていうより、壊れてる感じやな」


 未央がそう言った時、横手に別の気配が生まれた。全員がそちらを見る。もう一体の人型が、ゆっくりと何かを運んでいた。置いて、戻って、また運ぶ。その繰り返しに攻撃性はない。

「……さっきのと違うな」

「攻撃してこん」

 吾郎と未央がそれぞれ呟く。

 よく見れば、輪郭の揺らぎはあるが歪体ほどひどくはない。形が比較的安定している。さらにその奥で、別の一体がこちらを見てぴたりと止まった。

 今度は明確だった。“認識した”のだ。

 空気が張る。だが、それでも相手は動かない。攻撃するでもなく、ただ静かにこちらを見ている。

 そしてゆっくりと、口のような部位が動いた。

 音はない。だが、何かを発している気配は確かにあった。

「……今、話してる……?」

 怜の言葉に、フィンが静かに手を上げる。

「動くな」

 全員がその場に止まったまま、フィンだけが一歩前へ出る。


「……接触を試みる」

「一人で行くん?」

「そうだ」

 フィンは手袋を外し、指先に淡い光を集めた。

「偽装の魔術だ。ヴェイルの気配と魔力に寄せる」

「完全にはできへんのやろ?」

  「完全ではない。だが、近づけることはできる」

 光が空気に溶けると、フィンの存在感がわずかに薄まった。

 消えたわけではない。ただ、この場に馴染んだように見える。

 フィンはそのままゆっくり歩き出した。相手との距離が縮まるほど空間の歪みも強くなるが、それでも足を止めない。

 数歩手前で止まる。相手ははっきりとフィンを見ていた。そこには、先ほどの歪体にはなかった意思がある。

 フィンが口を開く。声は届かない。だが、何か別の形で通じているのが分かった。


 長い間があった。やがてそのヴェイルはゆっくりと手を上げ、攻撃ではなく、何かを差し出した。揺らぐ物質だった。固体とも液体ともつかない、不安定な塊。フィンはそれを受け取る。さらに相手は微かに何かを発し、今度は音に近い断片が生まれた。言語だった。

 怜が目を見開く。フィンがわずかに頷いた。やり取りは成立している。数秒だけの短い接触だったが、それで十分だった。ヴェイルは静かに立ち去り、再び何事もなかったように自分の動きへ戻っていく。

 フィンが戻ってくると、未央はその手の中を覗き込んだ。

「……何なん、それ」

「分からん」

 短い答えだったが、フィンは続けた。

「ただ、意味はある。偶然ではない」


 その言葉の直後、周囲の空気がまたわずかに変わった。

 全員が自然と前方へ意識を向ける。歪みの奥に、今度ははっきりと“誰か”が立っていた。


 人型。輪郭は安定している。揺らぎはあるが、歪体ほどではない。そして、その存在は明確にこちらを見ていた。


「……来るな」

 フィンが低く言う。

 相手は警戒しながらも、敵意を露わにすることなく歩いてきた。

 五歩、三歩、二歩。

 十分な距離を残した位置で立ち止まり、しばしの沈黙のあと、ゆっくりと口を開く。


「――異質」


 明確な言葉だった。

 吾郎が思わず声を漏らす。

「……は?」

 未央は目を細め、怜は息を呑み、彰は微動だにしない。

 フィンだけがわずかに前へ出る。

「……通じるか」

 一瞬の間を置き、その存在は答えた。

「通じている」

 完全な言語だった。多少の揺らぎはあるが、意味は明瞭だ。

「お前たちは、外から来た」

「そうだ」

 フィンは迷いなく応じる。

「ここは、お前たちの領域か」

 問われた存在は、少しだけ首を傾げた。

「領域……違う。ここは、ただの場所」

 未央が小さく笑う。

「ただの場所、ね」

 その存在は未央へ視線を向けた。


「お前。異質」


 同じ言葉が、今度ははっきり未央個人に向けられる。未央は肩をすくめた。

「そうか? そっちも大概やと思うけどな」

 場の空気は張っているのに、不思議と敵対の色は薄かった。フィンはそのまま問いを重ねる。

「先ほどの個体は何だ」

「歪体か」

 即答だった。全員がわずかに反応する。フィンが目を細める。

「名称を知っているのか」

「人間側の呼称だ。正確ではないが、近い」

「では、あれは何だ」

「壊れたもの。意思が保てなかった個体」

 静かな言葉が重く響く。彰が低く問い返した。

「……元は、同じか」

「そうだ。環境に適応できなかった」

 怜が小さく呟く。

「じゃあ、あなたは」

「維持できている」

 それだけで十分だった。未央が口の端を上げる。

「ほな、“普通のやつ”ってことやな」

 相手はわずかに首を傾げる。

「普通、という概念は曖昧だ」

「せやろな」

 未央は軽く笑ったが、フィンはそこで一番重要な問いを口にした。

「なぜ攻撃しない」

 相手は少しの間だけ黙り、それからあまりにも簡単に答えた。

「必要がない。敵ではない。少なくとも、今は」

 吾郎がその言葉を拾う。

「“今は”ってことは……」

「状況による」

 正直すぎる答えだった。フィンはそれを否定せず、そのまま次へ進む。

「交戦の意思は?」

「ない」

 即答。だが、その直後に続いた言葉が空気を変えた。

「侵食が進めば、変わる」

 未央が一歩踏み出す。

「侵食って何や」


 相手は答えるかどうかを量るように、少しだけ沈黙した。そして静かに言う。

「境界は、安定していない。歪みが増えれば均衡が崩れる。その時、多くは歪体になる」

 場に重い沈黙が落ちた。未央は笑ったが、目は笑っていない。

「なるほどな。つまり、放っといたら全部敵になる可能性あるってことやろ」

 その存在は否定しなかった。

 フィンが低く呟く。

「……重要情報だな」


 すると相手は再び未央を見る。


「お前。異質だ」


 三度目の言葉だったが、今度は明らかに意味合いが違っていた。


「適応する可能性がある」


 未央は眉を上げる。

「何にや」

 短い沈黙のあと、答えが落ちる。


「境界に」


 その一言が、静かに、しかし確かに全員の胸に沈んだ。

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