第95話 境界の向こう側
薄暗い石室。
簡素な机と、向かい合う二つの椅子。
その片方に、バルドルは座っていた。
拘束はされている。
だが、その態度には一切の窮屈さがなかった。
「……さて」
扉が開き、フィンタンが入室する。
静かな足取り。 無駄のない視線。
椅子に腰を下ろし、正面からバルドルを見る。
「時間をもらう」
「構わん」
バルドルは軽く肩をすくめた。
「どうせ暇をしていたところだ」
その余裕に、フィンタンは一瞬だけ目を細める。
だが、すぐに本題へ入った。
「境界を超えてくる際の封印について、答えてほしい」
間を置かず。
「断る」
即答だった。
空気がわずかに冷える。
フィンタンは、淡々と続けた。
「血の契約があるはずだ。リディア・カーヴィー伍長からの指示は拒否できない」
「貴様はリディア・カーヴィーではない」
バルドルは、わずかに笑う。
「そして私は、貴様の命令に従う義理もない」
「……ダナーン王国軍からの問いには、的確に答えるよう指示が出ているはずだ」
「出ているな」
バルドルは頷いた。
そして。
「的確に断る、と答えたではないか」
わずかに、口角を上げた。
フィンタンは、数秒沈黙した。
ため息ひとつ。
「……もう一度、指示し直すのも面倒だ」
机に指を軽く打つ。
「素直に答えてくれないか」
「ふむ」
バルドルは少しだけ考える素振りを見せた。
「では条件を出そう」
「言ってみろ」
「食後に紅茶を出せ」
「……それだけか」
「それだけだ」
間。
フィンタンは無言でバルドルを見る。
その表情は、明らかに呆れていた。
(カーヴィー伍長を呼ぶよりは早いか……)
思考はすぐに整理される。
「……いいだろう」
「交渉成立だ」
バルドルは満足そうに頷いた。
そして、軽く背もたれに寄りかかる。
「さて。何から聞く?」
「境界の封印についてだ」
フィンタンの声は変わらない。
「本来、お前たちのような実力者は、あの封印を超えられないはずだ」
「そうだな」
「だが実際には越えてくる。しかも数が増えている」
視線が鋭くなる。
「どういうことだ」
短い沈黙。
バルドルは、わずかに目を細めた。
「単純な話だ」
「……」
「魔力を抑える術を、こちらで研究した」
「……」
フィンタンの眉がわずかに動く。
「技術を研究しているのは、人間だけではない」
バルドルは淡々と言う。
「封印は、一定以上の魔力を持つ存在を弾く仕組みだ」
「だから、それを偽装する?」
「抑える。限界までな」
簡潔な答え。
「過去の実力で“登録”された個体は通れない」
バルドルは続ける。
「十一年前の侵攻で、我々の情報はかなり刻まれた」
「……」
「その点は遺憾だ」
軽く肩をすくめる。
反省ではない。 ただの事実確認だった。
「だが、今は違う」
バルドルの目がわずかに鋭くなる。
「新しい個体。あるいは魔力を偽装できる者は、通過できる」
「だから数が増えているのか」
「そういうことだ」
フィンタンは一度、息を吐いた。
状況は、想定以上に悪い。
「……もともと、あの境界は何だ」
次の問い。
「なぜ、お前たちはそこにいる」
バルドルは少しだけ視線を上げた。
「三千年より昔」
静かに語る。
「この大地は、我々ヴェイルが歩いていた」
「……」
「聖地もあった」
わずかな間。
「だが、追いやられた」
「誰にだ」
「さあな」
バルドルは肩をすくめる。
「人間、と言いたいところだが……それだけではない」
曖昧な答え。
「結果として、我々は魔力の濃い境界へ押し込められた」
「……」
「そこで、多くが変質し、絶えた」
淡々とした口調。
感情はほとんど乗っていない。
「だが」
わずかに、笑う。
「生き残ったものは、進化した」
その言葉には、確かな自負があった。
フィンタンは何も言わず、次を促す。
「封印は厄介だった」
バルドルは続ける。
「正直、最初は馬鹿にしていたがな」
「……」
「だが今は違う。封印そのものを除去する研究が進んでいる」
空気が一段、重くなる。
「それと同時に」
バルドルは視線を戻した。
「人間との和平、交流を求める者もいる」
「……本気か?」
「少なくとも、嘘ではない」
フィンタンは、その言葉を記録するように黙る。
そして。
「君たちの使うレガリアのようなものについても聞こう」
話題を切り替えた。
「あれは何だ」
「向こうでは単に“魔道具”と呼んでいる」
バルドルは答える。
「だが、最近は“レガリア”という呼び方が定着しつつあるな」
「機能は?」
「魔力の蓄積と出力」
短く答え、続ける。
「蓄えた魔力で、ある程度の身体欠損を修復できる」
「……再生か」
「厳密には違う」
バルドルは指を立てる。
「身体が、レガリアの魔力に“置き換わる”」
「……」
「度を越えれば、元には戻らない」
静かな声。
「二度と使えなくなる」
フィンタンは、わずかに目を細めた。
利点と、代償。
明確だった。
「最後に一つ」
フィンタンは言う。
「お前は、人間に協力する気はあるのか」
バルドルは、少しだけ考えた。
そして。
「リディア・カーヴィーになら協力する」
「……理由は」
「単純だ」
バルドルは笑う。
「気に入った」
軽い口調。
だが、嘘はない。
「それと」
少しだけ目を細める。
「先日、灰都イザリスで見かけた少女」
フィンタンの視線がわずかに動く。
「生命を懸けていた」
バルドルは静かに言う。
「リスペクトに値する」
それだけだった。
そして。
「その他の人間に関しては――」
肩をすくめる。
「今のところ、特に強い感情はない」
興味も、敵意も、執着も。
まだない。
ただ、それだけだった。
フィンタンはゆっくりと立ち上がる。
「……紅茶は用意する」
「当然だ」
バルドルは満足げに頷いた。
その笑みは、変わらず余裕に満ちていた。
だが。
その裏にあるものを、フィンタンは理解していた。
これは。
まだ、序章に過ぎない。




