第4話 その恋文、誰に出すつもり?
あの夜から、達吉の様子が変わった。
恋文は相変わらず毎晩書く。でも、書いている途中でときどき手を止めて、じっと私を見るのだ。
筆を。穂先から軸の尻まで、なめるように。
……なに?こわいんだけど。
私も意地になって、書き換えを続けた。「好き」は「嫌い」に。「会いたい」は「眠たい」に。
達吉は、もう書き直さなかった。
書き換えられた紙を一枚ずつ乾かして、懐の紙の束に重ねていく。
宝物みたいに。
……ほんとに、なんなの。
*
秋の、虫の声がうるさい夜だった。
達吉は恋文を書かず、文机に私を置いたまま、行灯の明かりをぼんやり見ていた。
そして、ぽつりと言った。
「この世界に、メロンソーダはないんだ」
……。
……え。
今、なんて?
「炭酸もない。ファミレスもない。ドリンクバーも」
達吉は、私を見ていた。まっすぐに。
「だから、あれを書いたのは、俺じゃない」
心臓が飛び出るかと思った。心臓、ないけど。
「聞こえてるかどうか、わからない。ただの筆かもしれない。俺の頭がおかしくなっただけかもしれない」
達吉は、口の端を少しゆがめた。
「でも、話す。……話させてくれ」
*
達吉には、前世の記憶があった。
遠山達規。会社員。二十九歳で死んだ。
「病気が見つかったんだ。あの年の冬。もう、どうにもならないやつだった」
虫の声が、少しだけ遠くなった気がした。
「残り半年って言われた。……楓に、言えなかった」
楓。
九十九年ぶりに、人の口から自分の名前を聞いた。
「言ったら、楓は絶対そばにいる。仕事も休んで、毎日病院に来て、俺が弱っていくのを全部見る。……それが、嫌だった。楓のこれからに、俺の死に顔を残したくなかった」
だから、別れた。理由を言わずに。
「本当のことを言おうとすると、『そばにいてくれ』って言いそうだった。だから、ごめんしか言えなかった」
そして、二か月後に死んだ。
「格好つけたつもりだった。……ただの身勝手だ」
達吉は、行灯の火を見つめたまま続けた。
「気づいたら、この世界にいた。記憶つきで。一度目の人生は、楓を探して終わった。町から町へ、それらしい人の噂を聞いては会いに行って。……見つからなかった」
そりゃそうだ。私は筆だったんだから。
「二度目の人生で、探すのはやめた。かわりに、書くことにした。届かない手紙を」
宛名のない恋文。
出されない恋文。
文箱にしまわれる、何百通もの。
「宛名は、書けなかった。楓の名前を書いたら、もう二度と会えないって認めるみたいで」
*
全部。
全部、私宛てだったの?
ちょっと待って。ちょっと待って、整理させて。
雨の日に髪がまとまらないって怒ってたのは、私。
笑った顔を思い出すと一日がんばれる、の笑った顔も、私。
で、私はそれを。
「怖いです」にして。
「眠たい」にして。
「犬切な人」にして。
……。
私、自分宛てのラブレターに、「犬切」って書かせてた?
穴があったら入りたい。筆立てでもいい。
でも、恥ずかしさのすぐ後ろから、別のものがせり上がってきた。
病気。余命半年。二か月後。
私が泣いて、怒って、既読にならないトーク画面を何度も開いていたとき。私が「ブロックか」って毒づいていたとき、あいつは、もう――。
……なにそれ。
なにそれ、なにそれ、なにそれ。
ずるい。そんなの、ずるい。
事情はわかったよ。
でも、勝手に決めたよね?
私がそばにいたいかどうか、私に聞かなかったよね?
「楓のこれからに残したくない」って、それ決めるの、私じゃないの?
四年付き合って、最後の最後に、いちばん大事なことを一人で決めて、一人で死んだ。しかも「ごめん」二回で。
許せるか、そんなの。
許せないのに。腹が立つのに。
どうして、穂先が震えてるんだろう。
*
達吉は、新しい紙を広げた。
墨をすって、私を浸す。いつもより、ずっと丁寧に。
「楓」
名前を呼ばれて、毛先がびくっとした。
「もし、そこにいるのが楓なら。……この字を書くのを、手伝ってくれ」
達吉が、紙の左上に穂先を下ろす。宛名を書く場所だった。
「何も起きなかったら。そうしたら、もう二度と聞かない」
一画目。木へんの、横線。
すうっと、穂先が紙を走る。
私は、何もしなくていい。
ただ黙って、こいつの手が動くとおりに墨を流せばいい。それだけで「楓」は誰の助けもなく書き上がって、こいつは、この筆には誰もいなかったと思う。
知らんぷりしてやればいい。それが、いちばんの仕返しだ。
あんたが私にしたのと同じ。何も言わずに、終わらせてやればいい。
二画目。三画目。四画目。木へんが書き上がる。
右側に移る。楓は十三画。長い字だ。迷う時間なら、いくらでもある。
五画目。
……このまま黙っていたら、こいつはもう二度と聞かない。
六画目。
それで、いいの?
七画目。
また、何も言わずに終わるの?
八画目。
今度は、私のほうから?
九画目。十画目。
達吉の手が、震えている。私の軸も、震えている。どっちの震えなのか、もうわからない。
十一画目。十二画目。
最後の一画。「風」の中の、小さな点。
そこで、達吉の手が止まりかけた。迷うみたいに、穂先がふっと紙から浮く。
――私は、その勢いを、ほんの少しだけ借りた。
穂先を、紙へ戻す。
ちょん。
源太の「犬」と同じ技。百年かけて、イタズラにしか使ってこなかった技。
「楓」
紙の左上に、一文字。
九十九年ぶりに見る、私の名前だった。
達吉は、浮きかけた自分の手を見つめたまま、しばらく何も言わなかった。
それから、顔をくしゃくしゃにして笑った。困った顔じゃない。前世で何度も見た、私の好きだった笑い方で。
「……やっと、宛名が書けた」
ぽた、と紙に何かが落ちた。墨じゃなかった。
……泣くな、ばか。
にじむでしょ、私の名前が。
でも、言っとくけど。
許したわけじゃ、ないからね。




