第3話 元カレの恋文をぶち壊せ
その夜、私は一睡もできなかった。筆は寝る必要ないけど。
文机の上で、私はぐるぐる考えた。
落ち着け、早見楓。相手は元カレだ。四年付き合って、「ごめん」二回で私を捨てた男だ。
でも、今は関係ない。今の私は筆で、あいつは紙問屋の若旦那。前世は前世。
一年。一年おとなしくしていれば、私は人の姿に戻れる。手があって、足があって、お風呂に入れる。墨じゃないお風呂に。
大人になれ、私。
*
次の夜も、達吉は恋文を書いた。
その次の夜も。その次の次の夜も。
毎晩、毎晩、上等な紙に、長い長い恋文を。
「あなたの笑った顔を思い出すと、一日がんばれます」
「あなたに伝えたいことが、まだたくさんあります」
「会いたい」
……は?
はああ?
ちょっと待って。私には「ごめん」二回だったよね?ひらがなにして、たったの六文字。
なのに、新しい女には毎晩これ?原稿用紙で何枚分?語彙力、ちゃんと持ってるじゃん。拾ってきたんじゃん。私以外のために。
ぷちん。
―― 一年?
知るか。
達吉が、新しい行に筆を下ろす。
「あなたの笑顔が好きです」
「好」の字に入ったところで、私は穂先に力を込めた。
達吉の手の運びに乗って、線をずらす。曲げる。次の画へ移ろうとする勢いを、ちょっとずつ借りる。
「あなたの笑顔が怖いです」
よし。
達吉の手が、止まった。じっと、紙を見ている。
さあ怒れ。驚け。気味悪がって、私を捨ててもいいよ。
その瞬間、視界が真っ白になった。
「早見さん」
窓口だった。神様が、湯呑みを持ったまま座っていた。
「不合格です」
ぽん。判子。
「早っ!!」
「審査期間に入って十二日目でございます。歴代最速です」
「ちょ、待って、今のは事情が――」
「事情は皆さまおありです。次の方」
後ろで、茶碗がぺこりとお辞儀をした。
真っ白。
……文机の上に、戻っていた。
しばらく、私は呆然とした。
人間の手。足。墨じゃないお風呂。
さようなら。
まあ、いっか。……いや、お風呂は惜しい。かなり惜しい。
でも、どうせ落ちたなら。 とことん、やってやる。
達吉は、まだ紙を見つめていた。それから、何も言わずにその紙を脇へよけた。
新しい紙を広げる。墨をつけ直す。書き直す。
「あなたの笑顔が好きです」
……怒らないんだ。
ふーん。じゃあ、根比べね。
*
そこから先は、ちょっとした戦争だった。
「好き」と書けば、「嫌い」にする。
「会いたい」と書けば、「眠たい」にする。
「月がきれいでした」と書けば、「月が太いでした」にする。日本語として壊れてるけど、気にしない。
「愛」の字は、かすれさせる。墨の出をちょっと絞るだけで、見るからに頼りない「愛」のできあがり。書き直されたら、またかすれさせる。地味だけど、効く。
極めつけは、これだ。
「あなたは、私の大切な人です」
「大」の一画目。横線の右端で、穂先が浮いた瞬間。
ちょん。
「あなたは、私の犬切な人です」
源太で鍛えた、百年ものの技である。腕は落ちていない。
達吉は、そのたびに手を止めた。
紙をじっと見る。そして新しい紙を出して、書き直す。
一回も怒らない。舌打ちもしない。私を投げ捨てもしない。
……なんなの、この人。
前世の達規も、そうだった。私が怒っても言い返さない。黙って、困った顔で笑う。それがまた、腹が立つのだ。
困ったのは、番頭さんだった。
「若旦那。近ごろ上等の紙の減りが、尋常じゃございません」
「すまない。売上から引いておいてくれ」
「若旦那のお小遣いから引きます」
番頭さん、強い。
ちなみに、帳簿には一切手を出していない。遠州屋が潰れたら、私の住む文机もなくなる。復讐にも分別は大事だ。
*
ある日気づいた。書き直された恋文は、文箱にしまわれる。書き損じも、なぜか捨てずに一緒にしまわれる。
そして、ひと月たっても、ふた月たっても、一通も出されない。
宛名もない。「あなた」とあるだけで、名前がどこにも書いていない。
……え、出さないの?毎晩あんなに書いて?
身分違いの相手?まさかの人妻?それとも、遠くにいる人?
どれにしても、出せない恋文を毎晩書いて、しまいこんで、自分だけ満足している。
なにそれ。
言いたいことがあるなら、ちゃんと本人に言いなさいよ。「ごめん」以外で。
……前世から、何も変わってないじゃん。
腹が立つ。だから、私は今夜も書き換える。
*
ある、暑い夏の夜だった。
達吉は汗をぬぐいながら、いつものように書いていた。
「今日はとても暑くて、冷たいお茶が飲みたくなりました」
冷たい、飲み物。
その瞬間、頭の奥で、からん、と氷の音がした。
駅前のファミレス。ドリンクバー。グラスの中で泡を立てていた、緑色の。
「ごめん。別れよう」
――気がついたら、線を曲げていた。いつもの嫌がらせじゃない。勝手に、反射で。
「今日はとても暑くて、めろんそうだが飲みたくなりました」
……あ。
やば。
この世界に、メロンソーダ、ない。
なんで今、こんなものが出てきたんだろう。
いや、いい。意味不明な言葉に化けたなら、それはそれで立派な嫌がらせだ。
達吉の手が、止まった。
いつもより、ずっと長く。
筆を持つ指先が、かすかに震えていた。軸を通して、その震えが私に伝わってくる。
さすがに気味が悪くなった?ついに怒る?
達吉は、怒らなかった。
その紙を、そっと持ち上げた。墨が乾くのを待って、丁寧に、丁寧に折りたたんだ。
そして文箱ではなく、自分の懐にしまった。
……え、そっち?
その夜、達吉はもう一通、書いた。
いつもより、ゆっくり。一文字ずつ、何かを確かめるみたいに。
まるで、私が書き換えるのを待っているみたいに。
……なにそれ。挑戦状?
上等じゃない。
受けて立つわよ、元カレ。
私の復讐は、まだ始まったばかりなんだから。




