第2話 九十九年目の神様面談
源太は大きくなった。
声変わりして、背が伸びて、寺子屋を出て、家の八百屋を継いだ。
そして私は、引き出しの奥にしまわれた。
……え、私、引退?
まあ、八百屋に筆はそんなにいらないか。値札は炭で書くし。
それからの私は、わりとあちこちを転々とした。途中で何度か、穂先も替えられた。筆屋の職人が、私の毛をすぽっと抜いて、新しい毛を差し込むのだ。
頭が、すーすーする。
これ、人間でいうと何?カツラ?植毛?……考えるのはやめた。軸さえ無事なら、私は私らしい。
*
次の持ち主は、長屋暮らしの売れない絵師だった。
猫ばかり描いている男だった。三毛、黒、キジトラ。部屋じゅう猫の絵だらけなのに、本物の猫は一匹もいない。餌代の余裕もなくて飼えないらしい。泣ける。
このころには、私の能力もちょっと育っていた。点ひとつから、一文字まるごとへ。書き手の筆の運びを少しずつずらして、別の字に寄せていける。
ある日、絵師は大店のご隠居に頼まれた猫の絵を仕上げて、箱書きをしていた。
「猫」
けものへんまで書いたところで、私はひらめいた。
右側、ちょっと曲げたら別の字になるな?
魔が差した。差しまくった。
絵師の手が線を引くたびに、ちょい、ちょい、とずらしていく。
「狸」
……完成してしまった。
絵師は徹夜明けだったせいか、まったく気づかなかった。
数日後。箱を開けたご隠居が、腹を抱えて笑った。
「猫を頼んだら、箱には狸とな!こりゃ洒落が効いとる!」
洒落だと思われた。しかもウケた。噂は町じゅうに広まって、絵師は「狸先生」と呼ばれ、狸の絵の注文が殺到した。
絵師は、泣く泣く狸を描き続けた。猫が描きたいのに。
夜中にこっそり猫を描いては溜息をつく背中を見て、さすがの私も、ちょっとだけ反省した。
ちょっとって、まあ、三日くらい。
*
その次は、恋文の代筆屋だった。
読み書きの苦手な町の人に代わって、手紙を書く商売だ。客の半分以上が恋文。
「とにかく、立派な文句で頼む」
客はたいていそう言う。代筆屋のおばあさんは「はいはい」と笑って、花だの月だの、きれいな言葉を並べてやる。
そして、たいてい振られる。
ある日、大工の若い衆がやってきた。立派な恋文で、三回振られた男だ。
おばあさんは私を置いて、言った。
「今度は、あんたが自分で書いてみな」
大工は真っ赤になって、私を握った。
字はひどかった。源太以来の逸材だった。書いてあるのは、たった二行。
「おまえのにぎりめしが、いちばんうまい
また、つくってくれ」
……それ、恋文?
このころの私は、一文くらいなら曲げられるようになっていた。正直、手を出したくてうずうずした。でも、なんとなくやめておいた。
そしたら、返事が来た。「はい」だった。
へえ。
飾った言葉より、下手くそでも本人の言葉のほうが届くことがあるらしい。
前世の私、四年付き合って、そんなことも知らなかった。
……いや待って、なんで今あいつの顔が浮かぶの。やめやめ。
*
おばあさんが亡くなって、私は古道具屋の棚に流れ着いた。
それからは、持ち主すらいない。埃をかぶり、たまに誰かに手に取られては戻される。
筆生、ついに待機生活に突入である。
何年たったかは知らない。筆にカレンダーはない。……いや、あっても見られないけど。
ある晩、急に視界が真っ白になった。
気づくと、私は机の上に立っていた。筆でも、立てるんだ、へえ。
向かいには、紺の着物を着た男が座っている。机の上には帳面と算盤と、湯呑み。
完全に、役所の窓口だった。
「早見楓さんですね」
「えっ、しゃべれる!?」
声が出た。九十九年ぶりの、自分の声。
「ここでは話せます。手短にお願いします。次の方がお待ちですので」
後ろを見る。急須と、鍋と、草履が一列に並んでいた。順番待ちしていた。
「わたくし、道具を担当しております神でございます」
「担当制なんだ」
「あなたは筆としてお生まれになって、まもなく九十九年になります」
九十九年。
……えっ、そんなに? 源太、とっくに……いや、考えない。考えない。
「道具は百年を経ますと、付喪神になる資格を得ます。あなたは現在、九十九年目です」
「あと一年?」
「そうです。ちなみに、九十九と書いて『つくも』と読むこともございます」
「へえ、ダジャレ?」
「由緒です」
神様は眉ひとつ動かさなかった。
「付喪神になりますと、神の端くれとして扱われます。望めば、人の姿をとることもできます」
人の、姿。
手がある。足がある。好きな字を、自分で書ける。ごはんが食べられる。お風呂に入れる。墨じゃないお風呂に。
「なる!なります!申請します!」
「ただし」
神様は帳面をとん、と叩いた。
「最後の一年は審査期間です。持ち主に悪さをなさいますと、資格は失われます」
「悪さって、どのくらいから?」
神様は帳面を読み上げた。
「点の追加、三百十二件。書けなくする、八百五十件。狸、一件」
「狸は別枠なんだ」
「被害が甚大でしたので」
ぐうの音も出ない。
「要するに、一年間、何もしなければよいのです」
「一年おとなしくするだけでしょ?楽勝。私、前世じゃ理不尽な上司に五年耐えたし」
「では、よい一年を」
ぽん、と判子の音がして、視界がまた真っ白になった。
*
古道具屋の棚で目が覚めて、数日後。
「これをもらえるか」
若い男が、私をつまみ上げた。上等な着物。後ろで、年配の男が渋い顔をしている。
「若旦那。筆でしたら筆屋で新しいものを……遠州屋の跡取りが古道具の筆なんて」
「いいんだ。なぜか、これが手に馴染む」
遠州屋。紙問屋の大店らしい。若旦那の名前は、達吉。二十歳そこそこ。顔は……まあ、悪くない。
その日から、私は遠州屋の帳場で働くことになった。
帳簿をつける。証文を書く。署名をする。
「達吉」
達、か。 ありふれた字だ。そういうことにしておこう。
ひとつだけ引っかかることがあった。
この人、書き方の癖が変なのだ。「す」の結び目を、やたら大きく、くるんと丸く書く。そのたびに私は穂先ごと一回転させられて、目が回る。
……この「す」、どこかで見たことがある。
どこだっけ。
*
その夜。
店が閉まって、奉公人たちが寝静まったあと。達吉は自分の部屋の文机に、真新しい上等な紙を広げた。
売り物の紙である。番頭さんが見たら泣く。
達吉は私を墨に浸して、ゆっくりと書き始めた。
「お元気ですか」
……ん?
「今日は雨でした。あなたは雨の日になると、髪がまとまらないと怒っていましたね」
おや。
おやおや。
これ、恋文では?
若旦那、恋してるんだ。へー。ふーん。かわいいとこあるじゃん。相手は誰だろ。町娘?どこかのお嬢さん?
達吉の筆は、ときどき止まりながら、長い長い手紙を綴っていく。「す」のところで、私はまたくるんと回された。
そして最後。
達吉は少しだけ手を止めてから、署名を書いた。
「達規」
……。
……は?
達吉じゃなくて。たつ、のり。
くるんと丸い「す」の結び目。冷蔵庫に貼ってあった「すぐ帰る」のメモ。四年間、何十回も見た字。
間違いない。
この男、遠山達規だ。
私を「ごめん」二回で振った、あの。
頭の中で、神様の声がよみがえる。
――最後の一年は審査期間です。
――持ち主に悪さをなさいますと。
……一年。
一年って、長くない?




