第1話 筆に転生したら、意外と快適だった
人生の最後に見たもの。自販機の「売切」ランプ。赤。
……いや、ダサくない?
午前一時、年度末、会社のビルの一階。エナジードリンクのボタンを連打したのに、缶は一本も落ちてこなかった。代わりに落ちたのは私だった。床に。顔から。
薄れていく意識の中で、最後に思ったのが「明日の会議資料、まだ直してない」。
人生のラストワードがそれ。社畜の鑑か。
早見 楓、二十八歳。紙と印刷の会社の営業事務。
上司の口癖は「これ急ぎで、よろしく」。急ぎじゃない仕事なんて、入社以来一度も見たことがない。後輩が辞めた。その分の仕事は、当然のように私の机に積まれた。誰か巻き取ってくれる人は?もちろんいない。
ついでに言っとくと、三か月前、四年間付き合った彼氏に振られた。
「ごめん。別れよう」
遠山 達規。駅前のファミレスで、メロンソーダを前に、それだけ言った。
「え、なんで?」
「……ごめん」
以上。
四年だよ?四年分の締めくくりが「ごめん」二回。語彙力どこに落としてきたの。拾ってきて。今すぐ。
それっきり連絡はつかなかった。メッセージは既読にすらならない。ブロックかよ。
泣いた。怒った。出社した。また怒った。残業した。
で、今。自販機の前の床である。
あーあ。つまんない人生だったな。
ーーぷつん。
*
次に目が覚めたとき、私はくすぐったかった。
どこが、と聞かれると困る。強いて言えば、全身の先っぽ。もふもふした何かを、誰かの指がしゃっしゃっと整えている。
ちょ、やめ、くすぐった――声が出ない。
見えるのは、煤けた木の天井。皺だらけのおじいさんの指。においは、獣っぽい毛と、膠と、墨。
「よし。ええ穂先や」
ひょいっ。
持ち上げられた。
は?え、待って、持ち上げ……私、成人女性ですけど!?体重とか、こう、それなりにありますけど!?
視界がぐるんと回る。壁一面の棚に、細い竹の棒がずらーっと並んでいる。全部、先っぽに毛の束つき。おじいさんの脇の水桶に、ちらっと何かが映った。
おじいさんの顔。と、その指につままれた、一本の筆。
……。
おじいさんが指を動かす。水面の筆も動く。
首をかしげてみる。――かしげる首が、ない。
……。
筆じゃん。
私、筆じゃん!!
いやいやいや、落ち着け早見楓。こういうのは知ってる。通勤電車で死ぬほど読んだ。異世界転生ってやつだ。だったらお約束があるはず。
ステータス、オープン!
……しーん。
スキル一覧!鑑定!アイテムボックス!ちょっと神様、説明会は!?チュートリアルは!?
……しーん。
おじいさんは鼻歌まじりに、私をほかの筆たちと一緒に箱へ並べた。ぽい、と。
剣に転生する話は読んだ。スライムも読んだ。自販機に転生する話まで読んだ。自販機。よりによって自販機。私、ついさっきそいつの前で死んだんだわ。
でも、筆。
剣なら戦える。スライムなら育つ。自販機ならジュースが出せる。
筆は?
持たれて、書かれる。以上。
しかもしゃべれない。動けない。文句のひとつも言えないまま、私は箱の中で隣の筆と肩を並べた。
肩もないけど!
*
筆屋の店先で売れ残ること数日。
「源太、これにしなさい」
お母さんに手を引かれた男の子が、私をむんずとつかんだ。七歳くらい。鼻の頭に泥。ほっぺにも泥。なんで?
「えー、こっちの太いのがいい」
「太いのは高いの!はじめて使うのだから普通のでよいの!明日からの寺子屋、ちゃんと字を覚えてきなさいよ」
こうして私は、源太という泥んこ少年にお買い上げされた。
ちなみにお値段、前世の私の時給より安い。
泣いていい?涙腺ないけど。
翌朝。筆生、初めての墨。
どぼん。
冷たっ!!ちょ、頭から!?頭からいく!?
毛の一本一本に、ぬるっと黒いのがしみ込んでくる。なにこれ、全身パック? いや絶対違う。
でも本当の地獄はそこからだった。
源太の字が、ひどい。いや、ひどいを超越しているかも。
とめ、はね、はらい、全部雑。「一」がうねうねしてる。ミミズか。「二」は上の線のほうが長い。逆。それ逆。お手本の横で、源太の字だけ千鳥足で踊っている。
さらに地獄は続く。
この子、考えごとをすると筆の尻を噛むのだ。
がじがじ。
やめて。そこ、たぶん私の足。
がじがじがじ。
噛むな。歯形つけるな。ちょっ、よだれ!よだれ垂れてる!
当然、声は届かない。源太は私をがじがじしながら、窓の外の雀をぼーっと眺めていた。人の話を聞け。人じゃないけど。
寺子屋のお師匠さんは、白髪のおっとりしたおじいちゃんだった。源太のミミズ字を見ても怒らない。「よし、もう一度」。それだけ。
あなた神か?
前世の上司と交換してほしい。今すぐ。熨斗つけるわ。
そんな毎日が、何年続いたのか。
途中で数えるのはやめた。筆にカレンダーはない。墨に浸かる、紙の上を走らされる、洗われる、干される、また墨に浸かる。以下ループ。
なのに。
意外と、悪くない。
上司いない。締切ない。既読にならないトーク画面を、夜中に何度も開いて閉じる必要もない。
源太の字はちょっとずつマシになっていった。尻を噛む癖は、まったく直らなかった。
直せ。
*
事件は、ある夏の日に起きた。
手習いの時間。源太は「大」の字を書いていた。書きながら、また私の尻をがじっ。しかも今日は、いつもより強め。
痛くはない。でも、カチンときた。
――書かせてやるもんか。
そう思った瞬間。
穂先から、墨が、出なくなった。
「……あれ?」
源太が紙にぐいぐい押しつける。かすっかすの線しか出ない。
源太、首をかしげる。硯で穂先をびしゃびしゃに湿らせる。もう一回。
出ない。
出さない。
出させてないのは、私だ。
……え、うそ。何かできちゃった?今の、私?
試しに念じるのをやめてみる。墨がするするっと流れ出した。源太は「なんだよもう」とぶつぶつ言いながら、「大」を書き上げにかかる。
ふーん。
へえー。
じゃあ、これは?
――右上に、点ひとつ。
……と思ったものの。どうやるの、これ。
穂先を動かそうと念じてみる。うんともすんとも言わない。私ひとりじゃ、毛一本ぴくりともしない。
そりゃそうだ。筆だもん。持たれてなきゃ、ただの棒。
なら、持たれてるときに。
源太が一画目の横線を引く。右端まで来て、次の画へ移ろうと穂先を浮かせる――その一瞬。
今!
源太の手の勢いに乗っかって、穂先をほんのちょっとだけ、紙の側へ引き戻す。
ちょん。
横線の右上に、黒い点がのっかった。源太は気づかず、そのまま残りの二画を書き上げる。
要するに、源太の手の勢いをちょっとお借りしたわけだ。私ひとりじゃ線一本引けない。でも、書き手が動いている間なら、そのレールをほんの少しだけ曲げられる。
「源太」
見回りのお師匠さんが、紙をのぞき込む。
「それは、犬やな」
どっかーん。
寺子屋じゅうが大爆笑。源太は耳まで真っ赤にして、紙と私を何度も見比べた。
私も心の中で笑い転げた。腹を抱えて。腹ないけど!
転生して何年目かは知らない。でも、ついに手に入れた。
チートスキル(一画ぶん)。
しょぼい。でも最高。
*
それからの私は、わりと忙しかった。
源太が尻を噛んだ日は、字に余計な点を足す。隣の子の紙に落書きしようとした日は、一本も線を引かせない。
気分はもう、天罰を下す神様だ。
……いや、罰の基準がだいたい私の機嫌なので、神様っていうより、ただの性格の悪い筆か。
うん、そっちだな。
でも、何もしない日もあった。
寺子屋が終わって、みんな帰ったあと。源太が一人で居残って、同じ字を何度も何度も書いていた日だ。
源太。
自分の名前の、二文字。
薄暗い部屋で、源太は口をとがらせて、ゆっくり、ゆっくり筆を運んだ。「源」の右側がでかすぎる。書き直し。「太」の点が迷子。書き直し。
尻は、一回も噛まなかった。
十枚目くらいで、ようやく人様に見せられる字になった。源太は紙を両手で掲げて、にかーっと笑った。鼻の頭に、墨がちょんとついていた。初めて会った日に泥がついていたのと、同じ場所だった。
その日、私は何もしなかった。点も足さないし、かすれさせもしない。源太の手が動くとおりに、ただ墨を流した。
自分の名前を、自分の手で書けた子どもの顔。それを特等席で見られる。
前世でやってたどの仕事より、ちょっとだけ――いや、だいぶ、気分がよかった。
筆生活。
悪くないじゃん。
責任なし。ノルマなし。元カレなし。むかつくやつには、点ひとつで仕返しし放題。
何これ、ホワイトすぎない?
私は源太の文机の上で、穂先をちょっとだけ揺らした。誰も気づかないくらい、ほんのちょっとだけ。
――このときの私は、まだ知らなかった。
この先、九十九年も筆をやる羽目になることを。
そしてその最後の一年に、あの男が現れることを。




