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第5話 史上もっとも不自由な文通

 翌朝。


 達吉は、ものすごく機嫌がよかった。


 朝餉《あさげ》の膳でにこにこ。帳場でにこにこ。番頭さんに紙の減りを詰められても、にこにこ。


「若旦那、何かいいことでも?」


「ああ。とても」


 番頭さんは、気味悪そうに私を見た。正確には、若旦那が帳場に大事そうに置いている、古ぼけた筆を。


 私は知らんぷりをした。


 言っとくけど、私はまだ怒ってるから。


 *


 その夜。達吉は紙を広げ、真面目な顔で言った。


「決まりを作ろう」


 ……決まり?


「楓は、自分から字は書けない。俺が書く字を変えることなら、できる。……合ってるか?」


 合ってる。けど、どうやって答えろと。


 達吉は、紙の端に一文字書いた。


「否」


「違うなら、このまま。合ってるなら、変えてくれ。『是』に」


 なるほど。何もしなければ「いいえ」。手を出せば「はい」。ゆうべと同じ理屈だ。


 ……頭いいな、こいつ。前世から、こういうのだけは得意だった。


 私は「否」の線をぐいぐい曲げて、「是」にしてやった。ちょっと乱暴に。


 達吉は、うれしそうに笑った。


「じゃあ、次」


『怒ってる?』


 是。力いっぱい、太く。


『すごく?』


 是。さらに太く。紙の裏まで墨が抜けた。


『……許してくれる?』


 否のまま。一画も触らない。


 達吉は「だよな」と頭をかいた。


 ……なんでちょっとうれしそうなの、この人。


 *


 ひと月もすると、達吉は工夫を覚えた。


「是」と「否」だけじゃ、楓は何も言えないだろう、と。


 そこで紙の真ん中に、意味のない字を一行、ずらっと書くようになった。


「いろはにほへとちりぬるを」


「ここは、楓の行だ。好きに書き換えてくれ」


 ……。


 私の、行。


 百年近く、ひとの書く字を曲げるだけの筆だった。イタズラして、仕返しして、それだけだった。


 それが、一行もらった。


 とはいえ、制限はある。使えるのは、達吉が書いた線だけ。線が足りなければ、どれだけ曲げても思った字にはならない。


 最初の行は、こうなった。


「ばか」


 残りは、全部かすれた。言いたいことが多すぎて、まとまらなかったのだ。


 達吉は、その二文字を長いこと見ていた。


「……うん。ばかだった」


 *


 次の夜、達吉は少しためらってから、聞いた。


「楓は、どうして死んだんだ」


 いろはにほへと、が二行並んだ。


 答えにくい。けど、隠すようなことでもない。


「ざんぎょうあけ じはんきのまえで たおれた」


 達吉の顔から、血の気が引いた。


「……いつ」


「わかれて さんかげつご」


 達吉は、両手で顔を覆った。


「俺のせいだ」


 ……は?


 いやいやいや。違うから。


 私は次の行に飛びついた。


「ちがう じはんきのせい」


 達吉が、顔を上げた。


「……自販機の、せい?」


「うりきれ だった」


 達吉は、泣きながら吹き出した。器用な男だ。


 ……そうだよ。笑ってればいいんだよ。


 あんたのせいで死んだなんて、絶対に思わせてやらない。それだけは、私が決める。


 *


 ある夜、達吉がいちばん長い行をくれた。いろはにほへと、が三行。


「言いたいことを、全部」


 全部。


 全部なんて、三行じゃ足りない。百年分ある。


 でも、いちばん言いたいことなら、決まっていた。


 私は一画ずつ、ゆっくり曲げた。


「わたしは そばに いたかった」


「きめるのは わたし だった」


 達吉の手が、止まった。


 軸を通して、震えが伝わってくる。あの夜と同じ震え。


「……ごめ」


 言いかけたところで、私は残りの行に食らいついた。達吉の手は、まだ紙の上にあった。


「ごめん きんし」


 達吉が、目を丸くした。


 それから、ふっと笑った。


「……わかった。じゃあ、ちゃんと言う」


 達吉は新しい紙に、今度は自分の言葉で書いた。


『怖かった。楓に、弱っていくところを見られるのが。楓のいないところで死ぬほうが、まだましだと思った。間違ってた』


『ずっと、会いたかった』


 ……。


 最初から、そう書けばよかったのよ。


 百年も遠回りして。


 私は、その字には一画も触らなかった。


 *


 庭の楓が、真っ赤に色づいた夜だった。


 視界が、真っ白になった。


「早見さん」


 窓口。湯呑み。神様。


「本日をもちまして、百年でございます」


「……あ、そっか」


「審査の結果は、すでにお伝えしたとおりです。付喪神《つくもがみ》にはなれません。人の姿もとれません。これからも筆として、お過ごしいただきます」


 神様は淡々と帳面をめくった。


「何か、ご質問は」


「後悔してるか、とか聞かないの?」


「業務外ですので」


「……ちょっとだけ、してる。お風呂、入りたかった」


「左様ですか」


「でも、まあ。あっちのほうが、面白そうだから」


 神様が顔を上げた。窓口の向こうに、文机の前で私を待っている達吉が見えた。紙には、もう「否」がひとつ書いてある。


 神様は、しばらく黙って達吉を眺めていた。それから、帳面に何か書きつけた。


「……色々見てまいりましたが、持ち主と文通する筆は初めてです」


「でしょうね」


「そういうなり損ない方も、あるのですね」


 呆れた顔で、『了』の判子を押した。


「では、よい百一年目を」


 真っ白。


 *


 文机の上。


 行灯の明かり。墨のにおい。達吉の手。


「おかえり」


 ……どこ行ってたか、わかってるみたいに言わないでよ。


 達吉はいつものように私を墨に浸して、問いを書いた。


『楓。好きだ。楓は?』


 その下に、一文字。


「否」


 ……ほんとに、ずるい。


 何もしなければ、「いいえ」。手を出せば、私の答え。


 私は、まだ許してない。百年分、怒ってる。


 だから、「是」にはしてやらない。


「否」の線を、ゆっくり曲げる。七画のうち、二画はかすれさせて。


「未」


 まだ。


 達吉は、その一文字をじっと見て、それから声を出して笑った。


「まだ、か」


 そうよ。まだ。


「じゃあ、明日も聞く」


 ……毎日聞けば。


 百年でも、付き合ってあげる。こっちは筆だし、時間ならいくらでもある。


 ただし。


 次に変な女に恋文なんか書いたら、全部「犬切な人」にしてやるから。

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