4話:絹の肌を舐める、一筋の白い液
ルークがイザベラを見つめるなか、彼女は微笑み、首を傾げると、
「行き違いとなりましたが、正式なご挨拶をさせてくださいませ?」
彼女は両手でスカートを少し持ち上げ、礼をして見せた。慌ててルークは立ち上がった。
「ご無礼を。イザベラ様。戦帰りの不調法者ゆえ」
ルークは鞘に納めたクフィヤトを、切っ先を下に胸にあて改めて名乗りを上げた。
「不調法など。そのように自分を落とさないでくださいませ」
イザベラが口に手を当て、楚々と笑った。
乙女の笑いが残る中、ユラウスが眉を下げた。
「ルーク殿、申し訳ない。本来であれば家族で挨拶をさせたいところであるが……妻はおらず」
「ユラウス侯、それ以上は――」
貴族でも話しづらいことはあるだろう、とルークは遮った。
「お気遣いなく……私は単なる騎士ゆえ」
ユラウスを安心させるため、馴れぬおどけセリフをルークは口にした。思いは伝わったのか、ユラウスはどこか申し訳ない笑みを浮かべ、
「ああ、ルーク殿もお疲れであろう。イザベラ、そろそろ客室に案内を――」
「ええ、ではルーク様、どうぞこちらに……」
ルークがイザベラに伴われ、向かった客室は質素なものであった。家具の類は長椅子と低めの卓、ベッド、姿見のみであった。しかし粗末ではない。長椅子の背もたれと座面には、四季の花を刺繍した布で覆われ、綿がしっかりと詰め込まれていた。猫足のそれを寝床代わりにしても、ルークには充分であった。
出入り口のわきに剣を拭くための荒布、油の入ったガラス瓶が置かれている。
口元をほころばせたルークに、イザベラが口を開いた。
「騎士様なら、剣の手入れや鎧や剣を置く場所が必要になるだろう、と父が。花瓶や化粧台は動かしましたが、よろしかったかしら」
「――有難うございます」
ユラウスとイザベラの心遣いに、ルークは我知らず表情を緩めていた。
だが、イザベラは眉尻を下げていた。
「ああ、鎧の手入れに、水は必要では? 魔物の血や汚れを落とすために……」
「いえ、お気遣いは――ある程度の血は、魔法によって落ちますので」
ルークは自身が着込む鎧を指し示した。先ほど、魔物の腕を斬ったというのに、鎧には鎧、腰垂れ、肩当てには血糊は残っていない。
『放浪の鷹』の鎧は、宮廷魔道院特注であった。裏側に魔術印が幾重にも刻印され、それらは、鎧を頑強にするためだけではなかった。血糊、肉片、脂をある程度落とす。サビを遅らせる。そのような効果もあった。
それは、魔物と一人で戦わねばならぬ、死闘をも暗示していた。
イザベラはルークの鎧をためつすがめつした。
「まあ、本当……それでもいくらかは付くでしょう?」
いえ、とルークは言いかけたが、言い直した。もてなしの思いに応えるためであった。
「それでは、よろしくお願いいたします、イザベラ様」
「イザベラ、でよろしいのよ? 鎧を脱いで、おくつろぎになってください、ね?」
イザベラは微笑み、ルークの返事を待たずにきびすを返した。どこか足取り軽く客室をでていく令嬢の背を見送り、ルークは鎧を外し始めた。
シャツとズボンのみとなったルークは姿見に自身を映した。鏡には己の均整の取れた顔が映っていた。手入れを整えずとも柳の方に伸びた眉、長いまつ毛、紫がかった青の両目、その間には、高き鼻梁が通っていた。均衡を崩していたのは、先程のクフィヤトの口づけだった。不均衡が男に不揃いの妖しさをもたらしていた。
鋭利過ぎる傷口は、すでに塞がっている。
しかし、ルークは自身の顔を見てはいなかった。シャツに魔物の血がついていることを検め、僅かに眉をしかめるとシャツを脱ぎ、代えのものを合切袋から取り出した。あらわになったルークの上裸には、体毛がほとんど生えていない。滑らかな白の肌には戦場での傷痕と、筋のおこりだけがあった。代えのシャツへ着替える。汗が男の肌につやをもたらしていた。逞しき二の腕と肩、背の筋がゆっくりと動く。見せるための筋肉ではない。実用者の筋肉であった。
新たなシャツに着替えたルークの背後で、ノックをする音がした。
声をかけると、イザベラが使用人を伴って入ってきた。
「有難うございます、イザベラ、様」
先程の言葉を思い出しながらも、騎士の習慣がルークはそう言わせた。
水を張ったたらいを使用人は静かに置くと、挨拶もそこそこに静かにでていった。
しかし、イザベラは出ていかない。
なにか、とルークが口を開きかけたが、その疑念は直ぐに解消した。別の使用人が銀の盆を持ってきたからであった。
盆に載せられた白磁の皿には、ケーキと苺の糖蜜漬が乗せられていた。夜会などで見かける、生クリームで着飾ったようなケーキではない。シフォンだった。贅を凝らしすぎぬよう、慎ましやかに、生クリームが一匙、シフォンの上には乗っていた。生クリームから、つややかな白の一雫が垂れた。絹の質感をともなうケーキの肌を舐めていく。
皿は、二つあった。
戸惑うルークに向けて、イザベラが口を開いた。
「よろしければ、召し上がりませんか? ルーク様のお話も聞かせていただきたいのです」
「しかし、私の知っている話など戦と剣のことばかり……」
更に困惑の声をルークは上げたが、応えるイザベラの声は、上ずっていた。
「それが、聞いてみたいのですっ」
好奇の溢れた声であった。ルークは内心苦笑しながらも頷いた。再びイザベラの印象が、先程の乗馬姿のものと一致した。
ルークは腰を掛け、それから長椅子が一脚しかないことに気づき、椅子代わりになるものを探そうとした。イザベラを長椅子に座らせ、自身は樽にでも座ろうと
しかしルークに、別の椅子に座るいとまは無かった。
イザベラが長椅子のそば、ルークの隣に座ってきたためであった。
赤のドレスが隣にある。ルークのズボンと艶のある赤の布地が擦れ合い、音を立てる。その布越しからほのかに乙女の体温が伝わる。だがそれ以上に太もも。互いの腿が、布越しにふれあい、もどかしげにも柔らかい乙女の筋肉をルークの肌に伝えた。
ルークは思わずイザベラの顔を見、真正面から彼女の視線を受け止めることとなった。
イザベラは上体ごとねじり、ルークに顔を向けていた。
緑の瞳をまたたかせた乙女は、頬には僅かな赤みを伴いながら言った。
「お聞かせください、ルーク様の武勇伝をっ」
声に騎士への憧れがあった。
ルークは努めて首から下をみないよう、ゆっくりと顔を卓へと向けると、
「武勇伝というほどのものは、私にはないのですが……」
ケーキを見つめて、とつとつと語り始めた。ケーキの、シフォンの部分だけをルークは見つめていた。生クリームの白く垂れる部分、苺のほのかに形の崩れた糖蜜漬の部分は見ずに。
そのような部分を見てしまうとどうにかなるような不安があった。
幾つかの剣術大会での話を、ルークは淡々と語った。もっと粗野な話は戦場にいくらでもあったが、それは痛みを伴っていた。血生臭い話を脚色するほどの力は、ルークにはなかった。
しかし、イザベラは楽しんだ。遠き異国の剣術使いとの試合に目を見張り、卓越した剛剣使いの話に手を握りしめ、曲芸混じりの短剣との会遇にはコロコロと鈴のような笑い声を上げていた。
乙女の笑い声に、いつしかルークの頬も緩んでいた。
イザベラが目尻の涙を指先で拭った。
「ああおかしい……お手玉をする短剣を無視して斬るなんて……ルーク様はいろんな体験をしてらっしゃるのね?」
「剣の代わりに、礼儀を置き忘れた無骨者です」
冗談半分にルークは言い、ケーキの最後の一欠片を口に運んだ。
「――剣。ですか」
イザベラがこぼした。
ややあってから、イザベラは横顔を向けたまま口を開いた。
「私も男なら、剣に打ち込んでみても良かったのですが……」
イザベラの言葉に漂う響きに、ルークは彼女の方へと首を向けた。
向けてしまった。向けたときには遅かった。




