2話:濡れた北半球
ルークは背後で、乙女が駆る蹄の音を聞きながら、クフィヤトを真正面に両手で握った。
魔剣の向こう、魔物を見つめる。
胸の内で、クフィヤトの銘をなぞっていた。
『正しいことを行え。私を振るうものに、罪はない』
闇の獣毛に包まれた魔物は、口だけが暗い赤と白に支配されていた。唾液にまみれた無数の長い牙が光り、黒に近い赤の舌が、牙を舐めていた。
魔物の口から涎が落ちる。熱を帯びた唾液は、田園に落ちると冷やされた鉄の音を立てて、その下の麦の若芽を灼いた。
焦げの臭いに、ルークはおぞけを走らせる暇もなかった。
魔物の前腕が、横殴りに迫ってきていた。
右から来る業風に、ルークは反射でクフィヤトを動かした。
首をふっ飛ばさん勢いの魔物の腕と、ルークの顔の間に魔剣が割り入る。
しかし、それが間違いであった。
「なっ……」
クフィヤトは、魔物の腕を弾かなかった。するすると魔物の腕を斬る。二つに分かたれた川のように、魔物の腕が縦に二分にされた。魔物から驚愕の唸りが出る。
その中で、ルークは痛みの呻きを上げていた。血が吹き出る中、魔物の一撃の勢いでクフィヤトが押されたのだ。魔物の肉とルークの間、魔剣の刃が頬へと寄る。
クフィヤトの刃がルークの頬に口づけをした。触れただけの刃が、一筋の血をルークの頬に描いた。皮一枚で済んだのはひとえにルークの業、とっさにクフィヤトを握り直しただけに過ぎない。
魔物が飛び退った。肘より先を二つに分かたれた右腕をぶらぶらとさせ、忌々しげに眼前の騎士を睨めつけていた。
頬より一筋の血を流しながら、ルークはクフィヤトを振るう。魔物の血が田園に飛び散った。クフィヤトは、斬ったことなど忘れたかのように、血糊すらつかず、抜かれたままの姿を保っていた。
ルークは剣を持ち上げた。魔剣の切れ味に戦慄はあった。だが、一方でクフィヤトが魔物に通用することに希望の芽を抱いていた。斬れすぎる。だが、有効打になり得る。
その判断すらも間違っていた。
ルークの眼前で、あぶくのような音と生臭い匂いが漂った。二つに分かたれていたはずの右腕、その傷口から肉が伸び、合わさり、接合し始めていた。ものの数呼吸もせぬ内に、魔物の右腕はさきほどと変わらぬ姿を保っていた。
「ここまでなのか……」
ルークは我知らず言葉を絞り出していた。
ゾラからは聞いていた。魔物は再生すると。斯様な速さの再生はルークの慮外にあった。未知の戦慄が、背骨を通る。理外の獣。戦慄は足の動きに現れた。一歩、左足を下げていた。
息を吸い、魔物から目を離さずクフィヤトを握り直す。次なる一撃が来た。
魔物の腕が再び横殴りに迫った。反射。ルークは魔剣を掲げた。地に水平に。再び防ぐ。顔の横、左にクフィヤトを掲げる。そして魔物の右腕が刃に触れる寸前、
――こうか。
体をさばいた。足を動かし、右前に歩を進めた。一歩。
受け流しにも似た動きだった。魔剣の刀身がルークから離れる。魔物の腕に刃が触れた。真一文字のクフィヤトが腕を裂く。ルークの身の捌きが魔物の腕と、刃の当たる点を次々に変えていく。
今度こそ魔物は驚愕の大声を上げた。飛び退り、涎をふりまき、ルークと魔剣を睨めつけ、後退った。
ルークは次の魔物の攻めに備えた。
だが、魔物の唸りと、身のこなしは明らかにクフィヤトに警戒していた。数瞬の対峙の後、魔物がきびすを返す。すでに左腕が再生しつつあった。
魔物は先程の緩慢な歩みとは相反した俊敏さで、魔物が走り出した。田園の向こう、森の方角へと姿を消していった。
追うか。ルークは一歩足を踏み出したが、すでに魔物の姿は見えない。不慣れな地で奇襲を受けるのは避けるべきであった。ルークは深く息をつき、クフィヤトを振った。再び血が地に飛ぶ中、全身の筋肉が鉛を背負う感覚をおぼえた。同時に歯噛みをしていた。
「すごい……」
遠くから、乙女の驚愕の声が聞こえた。先程の乙女の声だ。戻ってきたのか、とルークが片隅で思う間に背後で蹄の音が近くなっていった。
「騎士様」
ルークに振り向く間も与えず、黒毛の馬がそばに来ていた。乙女が飛び降りていた。
「お助けいただき有難うございます」
胸に手を当て、乙女は体を曲げた。作法を知る、貴族の礼だった。
「いえ放浪の鷹としての役を果たしたまで――しかし結局は逃げられてしまった」
仕留めきれなかった後味の苦さを噛み締め、ルークは乙女を改めて見つめた。
幅広の帽子が影となり、顔の仔細は見えない。しかしその躰。襟付きの、鮮やかな赤のシャツを着、裾を絞った男物の乗馬ズボンを履いた乙女だった。声の調子から歳の頃は一八ほどであろうか。乙女はズボンを革のサスペンダーで固定していた。
サスペンダーが腰、胸、肩まで周り、赤のシャツに線を描き、形良い膨らみを強調していた。全速力をかけ馬を走らせたためか、乙女のシャツ全てに汗の染みが浮かんでいる。薄く濡れた赤の布は乙女の肌に張り付き、体の線を見せ、その胸は未だ呼吸が整わぬのか、微細に上下に動いている。膨らみの北半球が特に濡れていた。第一ボタンを外した襟からは日に焼けた、健康的な喉が覗き、うぶ毛が陽光にきらめく。
乙女が戸惑いの声を上げた。
「あ、あの、騎士様?」
我に返ったルークは戦闘の疲労を感じつつ、首を振った。何かの罪悪感に襲われながら、うつむき、
「すみません……気が抜けておりました」
「当然ですわ、魔物と一人で戦っていたのですもの……」
乙女が声を上げた。
「騎士様、顔にお怪我が」
ルークは己の肌に入った一筋の傷に触れた。未だクフィヤトがつけた傷は、血を浮かばせていた。
「ああ、これは」
戦場にいたルークにとってはこの程度の傷は茶飯事であった。外套の裾を手に取り傷口をふこうとする。
それよりも先に乙女がハンカチを差し出していた。
「こちらを」
白のつややかなハンカチには、白糸で茨の刺繍がされていた。
ルークは苦笑いを浮かべ、首を振った。
「いえ、血でそのような美しいものを汚すわけには」
「そんなこと気になさらないで――」
いえ、と再びルークが言いかけたが、乙女の手が動いていた。
近寄った乙女が、ルークの頬に、ハンカチをあてていた。
布越しの、乙女の指先は傷のいたわりと慰みを伴っていた。いっそう近寄る乙女の体に、ルークはたじより、初めて乙女の顔を見つめた。
やや吊り上がった、アーモンドを思わせる目は碧玉の煌めきを持っていた。その下に慎ましやかな鼻が乗り、健康的な頬がゆるく弧を描いていた。薄い唇には桃色の紅が薄くひかれていた。髪の色は金であった。一括りに、長い三つ編みに髪をまとめていた。
乙女の唇が開いた。小ぶりなつやつやとした歯の先が見えた。
「痛みは、ございませんか?」
乙女の吐息は、ぬるい春の空気の中でも一種の熱を伴い、ルークに伝わった。息には薔薇の香りがあった。痛みなのか、それとも別のものなのか、ルークは頬に痺れを感じつつ、眉を下げた。
「かほどの傷、馴れておりますので……血は、洗っても落ちませんが、良いのですか」
頬に当てられたハンカチを己が手で押さえる。
乙女が吹き出した。
「言ったではありませんか。ですから気になさらないで、と」
「――では、ご厚意に甘えさせていただきます。私はルーク・フォン・ブレイシュニヒト、放浪の鷹の……新米です」
ルークの最後の言葉はやや自嘲混じりだった。
しかし、乙女は冗談と捉えたらしい。笑みを浮かべた。山野に咲く、野薔薇の笑みだった。
「名乗るのが遅れて、申し訳ありませんわ。ルーク様。私イザベラ・ヴァレンティン。直轄領代官ユラウス・ヴァレンティンの娘です」
ルークは目を見開いた。




