1話:貞淑な未亡人の本性を露わにする
マルクブルク王国北方にある王直轄領『レガンテ』は、穀倉地帯であった。ゆるくうねった耕地には畝が幾つも作られている。耕された畑は、春の乙女の息吹に艶を持ち、陽光と火照りに身を預け、土の割れ目からは秋小麦の若芽が顔を出しはじめていた。農夫たちが腰をかがめ、若芽に交じる雑草を引抜くたびに、湿り気を帯びた土が辺りに飛び散る。
春は、生の歓びを土地にもたらしていた。
甲斐甲斐しく働く農夫たちを横目に、ルーク・フォン・ブレイシュニヒトは麦畑のあぜ道を馬に揺られていた。闊歩する馬の蠕動に合わせ、上下にゆすられるたびに彼の真紅の肩当てとマントが僅かに揺れていた。
勅令が下って、一日後のことであった。王の首都からレガンテまで乗合宿を経由して、ルークは到着していた。勅令は至極単純なものであった。『レガンテに一体の魔物が現れた。至急直轄領代官ヴァレンティン家へと向かうこと』
――詳しい話は、向こうで聞け、という意味だった。
ルークは遥か遠くに見える猛き山脈を見つめながら、勅令が下るまでの三日を思い出した。そして今彼の腰で揺れ動くクフィヤトのことも。
勅令が下るまでの三日、剣術大会の祝辞を受けた後、ルークは東方騎士団の戦友たちと祝杯と献杯を行った。皆亡くなった戦友たちに涙し、ルークの放浪の鷹入団を喜んだ。仲間たちは近衛になるものもいれば、家業につくものもいた。報奨金を使い、王都で店を開くものもいた。皆が別の道を進むことに寂しさを覚えつつも、生き延び、足をつけた生活を送る仲間に、ルークの酒は進んでしまっていた。
だがそれ以上に時間を割いたのは、クフィヤトのことだった。幅広の魔剣。謁見の間ではあまりの格に押され、ルークですら気づくことに遅れたが、クフィヤトは異様であった。
切れ味が良すぎた。
藁を束ねた人形を用意し、宿舎の部屋で、横薙ぎに斬る。水を凪ぐような手触りとともに、人形の首は落ちた。だが、問題は斬った後だった。軽く、切れ味が鋭すぎる。通常の剣と同じ膂力で振ってしまった魔剣は、勢いを殺すことが無かった。いつもの剣なら、肉なり藁なりを断つ抵抗が腕へ返ってくる。
クフィヤトにはそれがなかった。振り回されるように、握った両腕が肩越しにまでまわってしまう。手首に力を込めなければ、魔剣の切っ先がルークの背にまで回ってしまったかも知れなかった。
初めの試しで、すでにルークの背筋におぞけが走っていた。実戦で使えば、鋭すぎる切れ味は、己が腿、肩を傷つけるやも知れない。
次に、肉を買ってきた。魔剣を斯様なことに使うのは恐れもあったが、異様なる剣の切れ味を確かめる必要があった。
縄で子供ほどある肉の塊を吊り、振るう。やはり、抵抗はない。揺れることもなく、上下に分かたれた肉は床に落ちた。
そこから、幾つかの物を試しに斬る。骨、煉瓦、鎧、石。分かったことは、煉瓦までならば、殆ど力を加えず、斬ることができることだった。
鎧を試す段になって、クフィヤトは初めて抵抗を見せた。それでも、通常の剣のように弾かれることはない。鎧に食い込み、刀傷を残していた。
それが、勅令までに分かったことであった。
これまでの剣と扱いを変えねばならない、とルークは遠方にある、猛き山脈を眺めながら思った。稜線は未だ雪が積もっている。鋭き峰々は白粉を塗られ、冷たき貞淑な未亡人の顔を見せていた。夏が来れば白粉は落ち、雪解け水として迸り、山の、その素肌と本性を露わにするであろう。
ヴァレンティン家までは、あと半刻もせぬ内に着くはずだった。
その時だった。
咆哮が聞こえた。遠方より木霊した唸りは、田園の農夫達の首をもたげさせた。声の先に皆顔を向けている。ルークも例外ではなかった。手綱を握り、馬を止めると顔を右に向けていた。
黒い影が見えた。二つ。大と小。僅かの間に影は大きくなってゆく。小さな紅の影が叫んでいた。
「皆、逃げてくださいませ!」
鋭い、乙女の声であった。紅の影の仔細が明らかとなる。馬に乗った乙女だった。男物の乗馬ズボンを履いた乙女は逃げて、逃げて、と馬を走らせながら、幅広帽をはためかせ、農夫たちに声をかけていく。
「魔物ですわ!」
大の影は、魔物だった。目からは青の燐光を放ったそれは、黒の獣毛を伴っていた。陽光のもとでも闇の毛は光を吸い込むばかりで、反射することはない。
魔物は、虎の姿をしていた。大きさは、虎以上だった。見える姿だけでも、一馬身ほどもある。魔物は牙をむき出しに唸りを上げ、四足をあやつり、田園の土をふみ歩く。ゆったりと乙女を追いかけていた。わざと追いつかず、遊ぶような動きは、獲物を品定めする動きでもあった。
乙女の声で、魔物の姿に気づいた農夫たちが手のくわ鍬も手放し、慌てて逃げはじめていく。
農夫たちとは反対に、ルークは馬を走らせた。
「そこの殿方も早く!」
此方の姿を認めたのであろう、乗馬の乙女が張り詰めた声を上げた。
ルークに制止は無用だった。乙女の横で馬を一度止めると、ルークは、
「御婦人、私が足止めいたしますっ」
馬を跳び降りた。鎧を着込んではいたが、それは宮廷魔道士による防御の刻印が施されていた。騎士団で使っている半量の重さしかなかった。
同じくして馬を引き止めた乙女の目が見開かれる。
「危険です、たった一人でなど……」
ルークは微笑んだ。
「私は、放浪の鷹です」
微笑むが、勝利への確信があったわけではなかった。乙女を安心させるためだけの笑いであった。
しかし乙女は彼の言葉に息を呑んだ。張り詰めた表情に僅かな緩みが起きるも、直ぐ引き締めた。
「御婦人、話はあとに……魔物の報、他の方々にお伝えいただけますか」
ルークは横手の乙女にそれだけを言い、目を前方に向けた。魔物はすでに、三馬身ほどの距離に近づいていた。
ルークはクフィヤトを抜きはなった。




