2話:変りの無い豊かな渓谷
胎児の魔物は、距離を離す馬車に、何も動きを見せずにいた。茸状に生えた複眼はどこを向いているか、はたからは判別が出来ない。動かぬ魔物をルークは見つめ続けた。
車輪が回る音に紛れ、魔物の脚がうごめく音が聞こえる。脚は織機のような精密さでうごめいているが、その場への移動に使われることは無かった。
時折吐き出される紫の煙が風に乗り、ルーク達に届く。刺激臭にむせかける喉と鼻を押さえ、御者を視界の端に収めた。御者の目は馬の先を凝視し続けていた。顔が脂汗で光っていた。
魔物の甲殻の脚、そのうちの一つが、一際大きく持ち上がった。ルークはクフィヤトを抜きかけ、しかしこらえた。護るものが多い今、うかつな闘いは避けるべきであった。
甲殻の脚が再び地に降りる。移動のためでは無かった。地鳴りが響く中、馬車はじわじわと魔物から距離を開け始めた。
ルークが御者に馬を止めさせたのは、およそ百馬身程度、魔物から離れたときであった。
御者台から降り、ルークは改めて馬車の扉を開けた。手巾を口元で押さえていても見間違えることは無い。車内にいるのは矢張りイザベラとエカテリニであった。
「イザベラ様、エカテリニ様、お二方ともどうして此処に……?」
ルークは二人の身振りで車内に入り込むと、声をひそめた。
手巾を外したエカテリニが肩を落とし、ため息をついた。
「まさかこんなことになるとは思ってなかったのですが――」
イザベラが眉を下げ、エカテリニを庇うように言った。
「私たち、ベレネに用があって……ただ、王都寄りの直通街道には蛇の魔物が出ていると伺っていましたから。それで大回りの迂回路を通っていましたの」
ルークから焦燥が急速に抜けおち、代わりに現れたのは二人に対する哀れみであった。
「ご不運でしたね」
ルークの言葉に、イザベラが長い息を吐いた。緩む表情は僅かの間だった。
「まさか……あんなものに出会うなんて」
彼女は身震いをした。それはイザベラの隣に座るエカテリニも同じであった。
「防具を買いに来ただけというのに――防具を買う前に出くわしてしまうなんて、笑い話にもなりませんね」
茶褐色の下唇をかみしめた、エカテリニの言葉は自嘲交じりであった。
ルークはかける言葉を見失い、安心させるためだけに彼女と、イザベラに微笑みかけた。うつむいたエカテリニの顎の下には、変りの無い豊かな渓谷があった。それは馬車の揺れにあわせ、小刻みに波打ち、張りのある乙女では出せぬ柔らかさを表現していた。
「先生が悪いわけではありませんわ……わたくしがお連れしたから」
エカテリニの渓谷に、イザベラの胸にある、釣鐘の双丘が近づいた。馬車の振動に、双丘は年頃の乙女の気持ちを表すように軽くリズミカルに跳ねていた。
イザベラは申し訳ない顔で、エカテリニの肩に手をやっていた。エカテリニはかみしめた唇をほどき、微笑んだ。
「お気になさらないで、突如魔物が現れたせいですもの――」
近寄る二対の双丘からルークは何とか目を離し、己が心を切り替えるために、咳払いをした。
「それではエカテリニ様も、イザベラ様もこのままベレネに幾日か滞在されるのですね」
「ええ、私の防具もきつくなっていましたから――」エカテリニが頷く中、イザベラが首をかしげた
「ルーク様はあの魔物を斃すために此処に?」
「いえ、別の魔物を屠ったのですが……先ほどの魔物の報を聞き、急遽偵察に参ったのです」
ルークは苦笑が混じるのを禁じ得なかった。イザベラが眉を下げた。
「ルーク様、ご不運でしたね」
先ほどのルークと同じ言葉を投げたことに、車内の三人は時を同じくして気づき、微笑んだ。
ベレネの城壁がすぐそこまで来ていた。ルークは窓の外を眺め、御者に止めるよう伝えた。
「それでは私はここまでで」
エカテリニとイザベラはルークを見つめ、何事か口にしようとした。しかし、言葉を生み出すこと無く、馬車を降りるルークにわずかに手を振るだけで留めた。
ルークは彼女たちに頷くと、御者とともに自身の馬を馬車より外した。馬にまたがろうとしたが、背後からの声に鐙に掛けかけた脚を戻した。
「ルーク、大丈夫でしたか? ……何故、馬車に?」
背にかけられた淡々とした声に、理由のしれぬ驚愕を感じながら、ルークは急ぎ振り返った。
ゾラであった。
ルークは戦場では感じたことの無い、後ろめたさを覚えた。それはどもりとなって言葉に表れた。
「ぞ、ゾラ、何故ここに」
「無茶をしていないかと思い、待っていたんですよ……その様子なら大丈夫そうですね」
ゾラはルークの上から下までを眺め、微笑んだ。
こちらを凝視するゾラの目にルークは気づき、慌てて口を開いた。
「あ、ああ。そういうことか。いや、その――斥候に出た際に、魔物を通るイザベラ様とエカテリニ様の馬車を見かけて、護衛を。おそらく魔物の方が出る前に彼女らはベレネに向かってしまって――」
自身の整理できぬ口ぶりに、ルークは焦りを濃くし、余計な言葉を挟んだ心持ちに陥った。
「まあ……イザベラ様と、エカテリニ様――?」
ゾラが馬車へと目を向けるのと、馬車の扉が再び開き、タラップから足音が響くのは同時であった。
馬車より先に降りたイザベラが、ルークとゾラに、交互に視線をやった。
「ルーク様、そちらの方は……?」
「い、イザベラ様、こちらはゾラ……私の仲間、その宮廷魔道士です」
ルークの後ろめたさはつのっていった。クフィヤトの秘密を抱えていたさいの後ろめたさとは別種のそれは、吐く言葉に震えをもたらしていた。
イザベラの背後にいたエカテリニが腕を組んだ。豊かな双丘は腕に持ち上げられ、胸元の大きく開いたドレスからまみえる渓谷が、より深まりを見せた。
「ああ、お仕事仲間なのですね――ゾラ、さん?」
エカテリニが納得の声を出す中、ゾラは背を伸ばし、頭を下げた。
「エカテリニ・クラモンド様と、イザベラ・ヴァレンティン様ですね、ゾラ・ナレルゲールと申します――、平服でのご挨拶、失礼いたします」
「私たちのことをご存じなのですか――失礼しました、ユラウス・ヴァレンティンの子、イザベラと申します、ゾラ様」
頬を赤らめ、イザベラが急ぎ頭を下げ、エカテリニも名乗った。
「あの、イザベラ様、ゾラで結構です、私は一介の宮廷魔道士ですゆえ」
「いえ、いえ! 年上の方にそのような――、ゾラ様」
「むしろ私のことも、エカテリニ、と呼び捨てにしていただけるとうれしいのですが、ゾラさん? 年も近いですし……」
「エカテリニ様、しかしそのような」
「お気になさらないで、ゾラさん」
「では――エカテリニ、さん?」
頭を上げた三人の女性が微笑みあう様に、ルークはどこか居心地の悪さを感じ、クフィヤトを所在なげに見つめた。
ルークの視線を魔剣から外させたのは、その場にいる三人ではなかった。
蹄の音であった。




