1話:危機の観察
翌日の早朝、ルークは滞在施設にて旅支度を整えた。外套を鎧の上から羽織ろうとしたが、それは音により中断された。
腰元の共鳴りの器が震えていた。ルークは訝しげに共鳴りの器を見つめたが、意図を察する猶予は与えられなかった。
扉を気ぜわしくたたく音と、扉越しの聞き慣れた声に、ルークは早足で歩き、扉を開けた。
ゾラであった。胸元で自身の両手を握り、表情は硬い。
「ゾラ、如何したんだ」
ゾラは眉を下げ、ルークの瞳を見ていた。ルークから見える彼女の目は揺れていた。
「ルーク。魔物の報がそちらにも及んだと思うのですが――実はベレネにもう一体の魔物が現れたのです……」
ゾラは努めてゆっくりと告げようとしていた。しかし、言葉は震えていた。
ルークは眉をひそめたが、すぐに頷いた。
「わかった――行こう」
「待ってください、ルーク」
踵を返そうとするルークの袖を、ゾラは掴んだ。
「これまでの魔物とは、少し違うんです。それゆえ、近隣にいた放浪の鷹に招集がかかりました」
「それだけ……危ないという事なのか?」
「ええ――これまでの倍の大きさを持つ魔物です。今のところ動きは遅く、被害は出ていないのですが」
ルークは顎に手を当て、眉をひそめた。ゾラの続けた言葉には、不安が混ざっていた。
「それに放浪の鷹が取り逃がした魔物なのです――」
ルークは顔を上げた。ゾラを見つめてしまった。
「ゾラ、そんなものが――」
「――いるのです。伏されていましたが」
ゾラの言葉にルークは眉間の皺を深くし、沈黙した。
沈黙は僅かであった。ルークは改めて彼女を見据え、告げた。彼の言葉はゾラを戸惑わせた。
「ゾラ。魔物について一度確認してきてもいいか」
「ルークっ?」
「接敵はしない。どのような魔物か確認だけがしたいんだ」
ゾラは不承不承に頷いた。だが彼の裾は掴んだままであった。
「わかりました――でもクフィヤトを貸してください」
彼女の頬は赤らんでいた。ルークは悟り、無言で鞘に収まったクフィヤトを渡す。
ゾラは唇をはにかませ、クフィヤトを唇に近づけた。艶に覆われた口を寄せる。
口づけはわずかの時で終わった。
それから、とゾラはルークの手を取った。魔剣を抱え、彼の手を両手で包み込む。
「ルーク、魔物はベレネの南方、三里の距離にいます」
「王都とは反対の方角だな」
「――絶対に無茶はしないでくださいね」
ゾラの念押しにルークは頷き、どちらとも無く手を離した。
ルークはベレネの城門を抜けた。駆け足の馬はルークの体を跳ねさせた。四半刻の半分も経たぬうちに、大なる影が見えた。ルークは二百馬身ほど離れたあたりで手綱を引いた、目をすがめた。
魔物は遠方の平地に、たたずむようにいた。
胎児の形に似ている。似ているのは形だけであった。無数の甲殻類に似た脚が生え、胎児の形を支えている。胎児の肌は黒であった。表面には赤の血管が這っていた。血管は網のように胎児を囲んでいる。血管のところどころに茸状に複眼が生え、時おり震えていた。
魔物が呼吸をするたびに、紫色の霧が生みだされた。
ルークは、魔物の姿に眉をひそめた。ゾラから聞いたとおりであった。
――あの霧には近づかないでください。喉と鼻が焼けただれます。
ゾラの言葉を思い出し、ルークは風上へと馬を歩ませた。すでに鼻は刺激臭を感じ取っていた。
やや小高い丘に馬を進め、魔物を観た。魔物は甲殻の脚をその場で動かしていた。しかし、何処かへ向かう気配はない。
ルークは霧の厄介さに眉をひそめ、先に魔物を取り逃がした者がいたことにも納得をした。
――どうすべきか。
その中で、霧を防ぐ幾つかの手法に思いをはせた。
思考は、視界の片隅に見えた光に遮られた。
馬車の窓であった。陽の光を明滅させた馬車が、街道を緩慢に進んでいた。魔物の傍を行かんとする馬車は窮鼠の体をなしていた。馬車と魔物の距離は、四十馬身も無い。
「まずいっ」
平静を乱されたルークは声を出した。馬の手綱を握った。馬を襲歩させた。馬車へと。
魔物を避けるよう、大回りに平地を走り、馬車へと近づいた。風で髪がなぶられる中、ルークは外套を剥いだ。馬車に見えるよう、掴んだ外套を振るう。
蒼天をはためく真紅の外套に、馬車が停まった。
ルークは外套を口元に巻いた。およそ四十馬身ほど離れているとは言え、鼻を刺す刺激臭は強くなっていた。魔物の霧におびえる馬をなだめながら、停まった馬車の御者台に近寄る。
ルークが御者にかける言葉は、猛りを抑えることが出来なかった。
「なにをしている――危険だっ」
「ほ、放浪の鷹のお方? へえ? し、しかしこの道しかねえし――あんなもんがいるなんて聞いちゃいねえんですわ」
戸惑い声を上げる御者にルークはかぶりを振った。御者への返答では無い、己の平静を取り戻すためであった。
――早朝に魔物の報を聞いたが、まだ迂回の報が流れていなかったか。
「何もしてこねえし、ゆっくり通れば、何とかなるんじゃないですかい?」
御者の言葉にルークは忸怩たる思いを抱えながらも、努めて相手を落ち着かせるよう、言葉を選んだ。
「――あの魔物の霧は、危険だそれに突然襲ってくるかもしれない」
眉を下げ、肩を落とす御者に対し、ルークは逡巡した。これからの指示をどう与えるべきか。
思考を遮る音がした。
馬車の窓をたたく音であった。窓へ顔を向けたルークは目を見開き、中の人物の名を呼んだ。
「――エカテリニ様、それにイザベラ様も?」
ルークは窓から見える二人の女性の姿に、戸惑いを覚えた。窓を開けようとするイザベラを身振りで制止し、布で口を覆うよう、己が外套で示してみせた。
意図を察したのだろう、車内のエカテリニが手巾を口元に当てる。ルークは彼女に頷き、御者を見た。
「街道をこのまま進むのはまずい。迂回をしながらいこう」
「騎士様、しかし平地を走るとなると……車輪が食い込みますぜ」
御者の懸念は的を得ていた。ベレネ南方に広がる平野は春の暖気に地が緩んでいた。泥濘というほどでは無いが、軟らかな場所で、抜け出せない可能性もある。ルークは馬車を見た。一頭立てである四輪の車には、所在なげに馬が一頭、轅の間に収まっている。
「私の馬をつなごう。一頭よりは踏ん張りがきく。軽いぬかるみなら抜けることが出来るはずだ」
ルークは馬から降りた。兼用馬車であることが幸いした。御者車体の脇から二頭立て用の轅棒を引き出す。ほどなく馬車に自身の馬をつなげ、ルークは御者台の隣に座った。
「運転は任せた――私は魔物を観る」
御者はゆっくりと頷いた。中年男の顔には、ルークの表情にあてられたのか、怯えが浮かんでいた。
「急いでぬかるみに嵌まれば目も当てられねえ……ゆ、ゆっくり行かせて貰いますぜ」
「かまわない」
ルークは魔物から目を離さず、頷いた。クフィヤトの柄に手をかけ続けていた。馬車が一度大きく揺れ、馬が街道を外れ、迂回し始めた。




