9話:戻る平穏、次の波乱。
ルークはふらつく上半身を意思で支え、森の入り口まで来た。
エカテリニがルークの馬の元へ駆け寄り、口を開いた。不明瞭な意識で言葉を判別することはできなかった。ただ曖昧に頷きエカテリニの先導で馬を進ませたていた。
定かでない記憶のまま、ルークはクラモンド城にたどり着き、二人の使用人に両脇から介添えされた。客室までたどり着いたルークは、やはりレガンテと同じように鎧を無造作に脱ぎ捨て、寝室に倒れ伏した。
翌朝ルークは、控えめなノックに目を覚ました。やはりレガンテと同じく、あの虚脱は身体から失せている。上体を起こすと背中に痛みが入った。戦場では背中に打撲を受け、下半身が動けなくなった者もいた。慌ててルークは足指を動かした。まんべんなく指が動くことを確かめ、安堵の息をついた。
いそぎ靴を履き、扉の向こうの人物に声をかけると、
「失礼いたします――」
二日前に、ルークの背を洗ってくれた使用人であった。男は、手に銀盆を携えていた。
「エカテリニ様の命で、朝食をお持ちしました。まだお疲れかもしれない、と」
ルークはひげ面の使用人に微笑んだ。ひげを歪めながら、使用人は客室の卓の上に白パン、スープ、チーズののった皿を並べていく。その中で、彼は、
「ルーク様、ありがとうございました」
ルークは眉をひそめたが、続いた使用人の言葉に得心をした。
「エカテリニ様が、喜んでおられていましたので……」
「感謝はありがたくいただくが、私は私の任と責を行ったまでさ」
一度身を許した仲であろうか、ルークは砕けた調子で使用人に肩をすくめた。使用人は喉の奥を鳴らして笑った。
「それでもお怪我はなく、私も安心した次第です」
どうぞ、と最後に告げ、使用人は客室を後にした。ルークは卓の前に座し、添えられたナイフを手に取ると、口に運んだ。やはり夕餉を食していないせいか、詰め込むようにパンを放り込み、野菜をふんだんに取り入れたスープを喉に流し込むようにして、瞬く間に平らげてしまう。添えられた、薄めた赤葡萄酒をルークが一息に飲んだ時、再びノックの音がした。
エカテリニであった。しかし、一人ではない。男がいた。顔の半分に包帯を巻いていた。
エカテリニは初めて会った時の、白のドレスを着ていた。彼女は男を示す。
「遅れながら、ご紹介いたします。弟のマルクですわ」
ルークは慌てて立ち上がり、マルクに会釈した後に、握手を求めんとし、それから気づき、戸惑った。
マルクは両腕に添え木と包帯を巻いていた。ルークの表情を見たマルクが眉尻を下げつつ、笑った。
「申し訳ありません、ルーク様。ご挨拶が遅れ……この腕は気にしないでください。魔物への不手際のせいですので。無様な握手で申し訳ありません」
エカテリニに似た笑顔を向けながら、マルクは添え木の巻かれた右手を差し出した。
ルークは腫れ物のようにマルクの手を握るが、痛むのか緩く上下に手を振った際に、マルクは顔をしかめた。
弟の様を苦笑交じりにエカテリニは見つめていたが、ルークに目を向け、自身の胸元に手を当てた。
「ルーク様、お変わりはございませんか……?」
「ええ。大きなけがは」
「医者に念のために見ていただくことも出来ますよ? 何せ私が、このような次第ですから」快活にマルクが告げるが、ルークは微笑み、首を振った。
「いえ、私の任は終わりましたので、ご迷惑をおかけするわけにはいきません」
「邪魔など、お加減がご心配――」
エカテリニが一歩、ルークの方へ足を踏み出しかけたが、口をつぐみ、すぐに足を戻した。
「――そうですね。放浪の鷹を長くお引き留めも出来ません。今から帰れば、マルクブルクまでは夕までに着くでしょうし」
「……エカテリニ様」
ルークはうつむく女に声をかけた。
「よろしければ、また……エスクリムを教えてください」
あれがなければ、此度の魔物を倒せる保証はなかった。まだ研鑽を高められる余地があった。エカテリニとならば。
陶器のような白の顔をエカテリニはルークに向けた。目元の紫の化粧が瞬き、切れ長の、下がり気味の目は孤を描いていた。
「ええ……お近いですし、いつでもお越しになってください、ね? 私から向かっても構いませんので」
「それは流石に。ご婦人を呼びつけるなど」
ルークは苦笑したが、その時は、エカテリニの言葉に違和感を持たなかった。
しかし違和感に気づかぬまま、二人が去った客室にて、ルークは身支度を整えた。
クラモンド城を後にする。帰路の途中でルークから見えたローシャの風景には、僅かながら働く農夫たちの姿があった。
夕方にマルクブルク王都へと戻ったルークは宮廷魔道院へと足をむけかけ、一度自身の宿舎へと向かった。報告もあったが、馬が怪我をしていた。疲れてもいる。放浪の鷹所属の馬を弱らせるには忍びなかった。宿舎の近くにある厩に預け、自身は歩いていけば良い。
「もう少し頑張ってくれ」
馬の逞しき首を撫で、甘えるような声を出した牝馬は、尻尾を一振りをした。艶やかな茶の毛並みは僅かに湿っていた。ルークは笑いながら、たてがみという茂みを指で掻きわけ、その下にある皮膚を掻いてやる。悦びの声とともに馬は足を進めた。
しかし馬は、なまめかしき細き四つ脚を止めた。
怪訝な思いになりながらも、ルークは馬の、夕の朱に染まる太首から目を離し、前方を見た。
言葉に詰まり、手綱をルークは握りしめた。自身の家の扉の前に立ち尽くす人影、うつむいた彼女を見つめ、
「――イザベラ様?」
その名を告げた。




