2話:興奮に頬を染める下女
本日の剣術試合は、隣国との和平条約が結ばれた事を称える、国を上げての式典の一つであった。闘技場の控えの間へと歩みながら、ルークはため息をついた。鎖帷子、下着の内にこもる熱気と汗みずくの肌を感じながらも、不快は無かった。
あるのは、試合後の虚脱だけだった。
満足感と僅かな寂しさを、ルークは胸に抱えて、等間隔に魔石ランプが掲げられた石造りの廊下を歩いていたとき、向こうから駆けてくる者がいた。
「る、ルーク様、ご優勝おめでとうございます」
闘技場で働く下女だ。剣の試合のたびに時折顔を合わせることがあった。
齢二十ほどの娘は、継ぎのないすみれ色のワンピースを着込んでいた。式典ということもあって身なりを整えたのだろう。ほっそりとした首筋と、玻璃のように薄い鎖骨が見えた。
下女は興奮に頬を染め、薄い胸板を反らせながら、
「さすが、東方騎士団十一軍の騎士長様です。英雄の御業に、あたし、胸がまだどきどきしております」
あかぎれの手を、僅かな双つの膨らみに添わせた。働き者の手だった。
あかぎれた指、その向こうでわずかに持ち上がる布地まで視界に収めながら、ルークは苦笑した。
「有難う……しかしもう東方騎士団は解散だ。今の私は、単なるルークだ」
娘が眉尻を下げた、潤んだ瞳でルークに一歩近づく。
「そんな事を言わないでくださいませ、あたしにとっても、皆にとってもあなたは英雄です」
娘の香りがルークの鼻をくすぐった。香水などはない。働き者の、汗の香りと多少の髪に塗った香油の香り。ハーブの爽やかさと、汗の香りが入り混じり、若草のような印象をルークの鼻に伝えた。潤んだ、熱を帯びた視線にルークは戸惑い、そして頭を振った。
――何を考えている。違う。香りなど今はどうでもよい。
「あ、あのルーク様……?」
突如頭を振るルークを、娘は拒絶と捉えたのか、不安げに瞳が揺れた。
急ぎルークは微笑むと、
「ああ、いやなんでもない。有難う。しかし、あの戦ではみなが英雄だったのだ。生きたものも、志半ばで死した者も、平和のために戦った……それだけは忘れないでくれ」
「あっ……申し訳ありません」
「分かってくれたのなら、いい……それで、何か私に用でも?」
「そうでした。木剣、それに鎖帷子をお預かりにまいったのです」
「あ、ああ。そのためにわざわざ来てくれたのか。すまないな」
そ、そんなことを、と謙遜する娘の前で、ルークは腰のベルトに手をかけた。
バックルの金属音が響く。ズボンがそれに結わえた木剣を外し、渡してやる。
「これが決勝を勝ち上がったルーク様の……」
娘の声が聞こえる。吐息も。これから大輪を咲かせる前の、蕾の声。ルークは鎖帷子に手をかけた。汗まみれの鎖帷子を彼女に渡すことに、心苦しさを感じながらも脱ぐ。視界がひらけたルークが目に収めたのは、娘が木剣を抱きしめる姿だった。
ワンピースの袖より覗く、贅肉のない細腕を、つややかな木の剣に回している。身の内に木剣を埋めようとするかのように。
ワンピースに襞が寄り、娘の腰骨、そして手を回せば折れそうなほど細い腰のラインが、布地越しに姿を見せた。
戸惑いながら鎖帷子をルークが差し出すと、娘は気づいたように顔を赤らめ、
「あっあの妙な真似をしてしまい申し訳ありません」
「大丈夫だが、其の剣に思い入れでも?」
鎖帷子を受け取った娘が、そっと目を伏せた。はにかんでいる。
「実はこの木剣、あたしがお世話をしていたものなのです……それをルーク様に使っていただき、優勝ま
でするなんて」
剣の世話。
其の言葉がルークの耳朶に張り付いた。剣の世話、とはなんだ。脳が別種の理解に及ぼうとするも、ルークはその思いを打ち消した。何を馬鹿な、闘技場で働いている娘だ。武具防具の手入れなども行うだろう。純粋な思いなのだ。
ではこれで、と木剣と鎖帷子を抱えた下女が、そそくさと小走りに駆けていく。ルークは其の背、風にたゆたうワンピースの裾を目で追いかけていた。
ルークに視線を斬らせた者は、背後より掛けられた声であった。
「ルーク様、よろしいでしょうかっ」
ルークは肩を跳ね上げた。贖罪の場を見られたような、不穏な思いを抱えたまま、振り向くと、そこには王の近衛兵が立っていた。
近衛は戸惑った面持ちをしていたが、ルークは頭を振った。
「あ、ああ。なんだろうか」
「……はっ、実は王がお呼びでございます。至急に謁見の間へと参ぜよ、と」
ルークは頷き、己の姿を見下ろした。木綿の肌着だけではまずかろうという思いで、
「承知した。しかし、着替えてからでもよろしいか」
「本来は其の方がよいのは私も承知しているのですが……その、王は気にせぬ、と」
戸惑い顔を浮かべる衛兵に、ルークはため息をついた。相手の身なりに頓着せぬ王であることは分かっていた。が、汗みずくの男と謁見するとは、家臣の目もあろうに。
「お、お急がせして申し訳ありません」頭を垂れる衛兵にルークは苦笑した。
「いや、君が悪いわけでは無いのだ……せめて、外套だけでも着せてくれ」




