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6話:白桃のごとき豊かな渓谷

 一刻後、日はすでにローシャの地平から顔を出していた。しかし、日は東の森の、樹上のみを照らすばかりであった。深き木々に覆われた地は、わずかな陽光を頼りに、苔と草むらに覆われ、霧がかっていた。

 ルークがエカテリニにつれられ、森の入り口を進んでから四半刻が経とうとしていた。

 ルークは同じく馬に乗る、隣のエカテリニを見た。

 エカテリニは胸甲を纏っていた。下には袖なしの革コートを着込んでいる。両肩には革の肩当てを身につけていた。腰には細剣を吊り下げ、ベルトより下には薄い黒の革ズボンを纏っていた。膝まである編み上げのブーツを履いていた。

 実戦の鎧姿であった。

 馬にまたがったエカテリニはルークに向けてはにかむように笑んだ。

「あまり見ないでくださいませ」

 エカテリニの顔に化粧は施されていなかった。それでもなお顔は白く、陶器のような肌は脂をたたえ、濃艶であった。エカテリニの笑みはつかの間だった。

「あと、もう少しでつきます」

 前方を見据えながら、エカテリニは前開きの革コートを結ぶ、ひもをいじっていた。

 革コートは、サイズがあっていない。ひもで結び、しっかと止めれば前はつなぎ目なく閉じるはずであった。しかし、交差する革紐の合間からは白桃のごとき豊かな渓谷が胸甲の襟ぐりより覗き、汗に濡れていた。

「――暑いです、ね」

 暑くはなかった。少なくとも、ルークは暑いとは感じなかった。だが、エカテリニを見つめ、うなずいた。

 エカテリニが息を漏らす。苦しげな、悶えの息であった。

 体の前と後ろを守る、二つつなぎの胸甲も、サイズがあっていない。本来であればぴったと主の体に沿うはずであったが、浮いていた。豊かな鞠は革のコートに収められてなお胸甲を持ち上げ、己は此処にあらんと意思を示していた。

 馬の揺れで胸甲が音を立て、苦々しげにエカテリニは言った。

「やはり十年前の鎧……エスクリムにかまけすぎた報いがこんなところに。野駆けでもすべきでした、ね――」

 恥じらいの声を背景にルークは計算をしていた。凡そはたちの頃に仕立てた鎧であれば、それ以降、成長していたことになる。革コートの内に無理くりに詰められた豊果は、どれほどの汗と熱を感じているのか。森の霧は、エカテリニの内にある、汗と熱を表しているのか。

 ルークはエカテリニを目におさめながら口を開いた。

「エカテリニ様、魔物が現れるようであれば――お逃げください」

 計算とは裏腹に、現実をルークは語った。防具の不備は命取りになる。

「威勢の良いことを言っておきながら――申し訳ございませんわ」

 エカテリニの謝罪と、馬のいななきは同時であった。

 いななきよりも早くに、ルークは視界の端に緑を捕らえた。

 触手であった。地から生えている。緑の表皮は粘りのある液に覆われていた。触手の高さ、太さは大人ほどもあり、断続的に震え、鞭毛を備えた尖端が死にかけの虫のようにうごめいていた。

 馬にまたがったまま、細剣を引き抜くエカテリニと対照的に、ルークは馬から降りていた。

 あれが、魔物か。クフィヤトを抜いた。

「下がれっ」

 エカテリニへただ短く伝え、ルークは構えた。右半身を前に出した。クフィヤトを両手で握り、目の高さで保つ。尖端を魔物へと向けていた。胸と腕の間に大木を抱くように、クフィヤトと胴を離した構えであった。

 ルークが今とれる、クフィヤトへの解答だった。あまりに鋭すぎる魔剣は、正眼で構えるには危険を伴っている。

 背後でエカテリニの声が響いた。

「ルーク様、あの液に触れると火傷を負いますっ」

 切迫した声に振り返らず、ルークは首肯した。それが合図であった。

 触手が粘液を飛び散らせ、ルークへと襲いかかる。早い。真正面から来る。

 だが、素直な動きだった。すでにルークは足を動かしていた。半身を切り替える。魔剣を突き出し、振るっていた。上から振るクフィヤトの刃は土に染み入る雨であった。触手の緑の表皮に食い込み、切り落としていた。

 触手の先端が鈍い音を立てて落ちる。触手の、薄紫の粘液が飛び散る。半身を切り替え、下がり、ルークは振り下ろした魔剣を再び構え、敵の動きを待つ、しかし。

 触手はさらなる追撃をしない。断面よりだらだらと血にも似た粘液を垂れ流し、震えていたのもわずかの間、蠕動した。

 触手が地に潜る。

 ルークは待った。待った。

 足の裏のわずかな震えを取りのがさんとした。だが、来ない。再び地が震え、触手が現れることはない。数十呼吸の後に、大きく息を吐くと、クフィヤトを振るった。断面から薔薇の花びらが出ないことに、僅かな未練がましい思いを感じながら、鞘に魔剣を収めた。

 その判断は尚早であった。

「まだです、ルークっ!」

 エカテリニの声に穴を見つめたことが、ルークの間違いであった。切り落とされた触手、地に残されたそれが跳ねたのだ。

 背を地につけた虫のように、触手が跳ね、ルークの足首に巻き付く。ルークはクフィヤトを抜いた。逆手に持った魔剣の尖端を触手に向けた。

「まだ生きて――っ」

 ルークは断とうとし、こらえた。クフィヤトならば触手を断つことは適う。しかし鎧を突き抜け、足首まで切り裂く。精妙な動きをもってしても、足を斬る危険があった。足首に加わる強力な圧迫に、ルークは歯がみした。このままでは骨が砕ける。

「お待ちくださいっ」

 そばで、エカテリニの声がした。いつしかそばにやってきたエカテリニは、手の細剣を下へと向けた。

「動かずに」

 ざらつきを持った声が、ルークの耳朶でささやかれた。エカテリニの腕が動く。細剣の刺突が、触手と、ルークの足甲の隙間へぬるりと入り込んだ。触手が斬られた。圧迫が弱くなる。

 ルークはもう片方の足で、巻き付く触手を蹴った。粘液を飛び散らせながら、触手が転がる。

 エカテリニが長く息を吐いた。

「お怪我はございませんか――?」

「ええ。助かりました、エカテリニ」

 ルークも肩の力を緩めたのち、様、と遅ればせながら付け加えた。足首を動かしたが、支障は無い。鞘にクフィヤトを収めた。

 エカテリニは口元をほころばせたのは僅かの間であった。


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