5話:逞しき背中を撫でる十指
汗みずくとなったルークは、エカテリニの計らいにより、城内の専用の蒸気浴室へ案内された。浴室は蒸し風呂であった。石作りの室の、その中心には湯を貯めた炉が置かれていた。炉の中で温熱の魔石が湯を絶えず泡立たせ、室を蒸気で満たしていた。
広くとられた蒸気室は、水源地であるローシャ独特のものであった。
服を脱いだルークは、使用人が用意した腰巻き一つで浴室に入った。蒸気のもやをかき分け、据えられた石の腰掛けに座る。事前に用意さていた桶の湯から布を手に取り、体をこすり始めた。旅と試合の汗と汚れを落としていく。
蒸気とともに、ルークの肌は潤いと赤みを帯び始めていた。鎧を着ていることが多いためか、肌は驚くほどに白い。しかし艶めいたその肌には無数の傷跡が蒸気の熱で浮かび上がった。ほどいた髪は蒸気を吸い、顔に張り付いた。整った顔は黒の髪に隠され、野趣という名の彩りを男の美しさに添えた。首筋から流れた汗と蒸気が、左右の胸の筋肉に挟まり、引き締まった腹部、筋肉の畝を通り過ぎていく。
「ルーク様」
声がした。
ルークは濡れた相貌を声の向こうに向けた。髪の隙間から紫がかった瞳を蒸気に向けていた。
蒸気に隠れた、人影があった。
「よろしいでしょうか」
再びの声にルークは了承の合図を送る前に、人影は蒸気をかき分け姿を現した。
「――失礼いたします」
男の使用人であった。中年の使用人は袖のないシャツと膝までのズボンを身につけ、手には真新しい布を携えていた。
「よろしければ、背中を拭わせていただきます」
静かに言った使用人にルークは背中を見せた。
「ありがたい」
では、と使用人がルークの背面のおこりを丁寧に撫でていく。
むくつけき、使用人の太き指先は、その形に反して、繊細であった。使用人は、ルークの筋肉の隙間一つ一つを拭い、汚れを落とした。毛にまみれた指先は蒸気を吸い、使用人は額とひげに汗を浮かべながらも、念入りにルークの肩と背を拭っていった。
ルークは男の指使いに感謝の念を抱きながらも、
「大変だろう、君も。簡単で構わない」
使用人はその言葉に答えなかった。代わりに出てきた言葉は、
「ルーク様、申し訳ありません」
「なにがだ?」
「エカテリニ様のことについてでございます。放浪の鷹を試すなど」
ルークが先ほどの剣術試合について思いをはせた。
男はルークが口を挟む前に、さらに言葉を重ねた。
「あの方は、マルク様、弟君が傷つかれていたのを大変悔やんでいたのです。それゆえ再び誰かが傷つくようなことがあれば……放浪の鷹の騎士ですら傷つくのではないか、と」
静かな、素朴な言であった。
ルークは使用人に顔を向けず、目を伏せた。
「――そうか」
「私にできることはこの程度ですが、エカテリニ様をご容赦ください」
「気にすることはない。ただ」
ルークは目を伏せた。自身の、下半身に至るまである、無数の傷跡を眺めた。
「ただ、私が傷つかない、という保証はできないからな。――彼女には言うなよ?」
ルークの言葉に、使用人は肩をふるわせた。押し殺した笑いを響かせ、
「――もちろんです」
ルークは使用人を見なかったが、同じように笑っていることを想像した。ルークは顔を上げた。
「すまない一つ聞きたいのだが――」
入浴後、すぐに眠りについたルークは、夜明け前に目を覚ました。寝台のそばの鎧の裏側を見た。無数に走った幾何学の魔術印の中心にある、魔石の色をルークは見た。魔石は魔術印の力の源であった。マルクブルク東方の山より採掘されるそれは、魔術師の魔素を貯めることができる。はじめは黒色を保つが、魔素が漏れ出るに従い、本来の透明へと戻るのが常であった。
ルークは魔素が満ち足りていることを認めてから、鎧を着た。外套を纏う。クフィヤトの鍔を見るが、色は変わっていない。ルークはレガンテでの力に頼ることはできないことを念頭に入れた。元より、不確実な力であった。しかしクフィヤトの切れ味には信を置いていた。
使用人に出る旨を告げた後、ルークはクラモンド城の玄関を抜け、厩に向かった。
夜明け前より馬丁は、馬に飼い葉を食ませていた。ルークは馬にまたがりながら、昨夜、使用人より聞いた魔物の場所を思い浮かべた。懐に収めた地図をたたき、領主代理に無言で出て行くことにわずかな申し訳なさを抱いた。
他砂を握りしめようとしたときに、女の声が上がった。
「ルーク様っ」
エカテリニであった。エカテリニはローブを羽織っていた、下は寝間着のままであった。室内履きのまま、城の庭園に飛び出した彼女は、まなじりをつり上げていた。
「何故出て行こうとされるのですっ」
叱責は、ルークの首をうなだれさせた。諦念とともに訪れた、手ひどいいたずらが見つかった時の、幼少期の後悔が去来し、騎士の口をつぐませた。
「せめて一言……いえ、魔物が住まう森は深いのですっ、案内の者ぐらいは連れて行ってくださいませっ。何故一人で行こうとするのです!」
なおも言いつのるエカテリニにルークはうつむいたまま、目を閉じた。
漏れた言葉は、一言だけであった。
「申し訳ありません」
「そういうことが聞きたいのではないのです」
「――私は、傷つくことも任の内と、捉えています」
ルークの胸の内には、昨夜の蒸気風呂が思い浮かんでいた。彼は使用人の言葉を思い返し、続けた。
「エカテリニ様、私は約束はできません――あなたに会えば、私はそう告げるしかなかったのです」
言えば目の前の女は苦しむかもしれない。死ねばなおさら。しかし、ルークにとって死とは恐れるべきものではなかった。ただ隣にある物であった。
エカテリニが息を飲む音が聞こえた。
ルークにとって、沈黙は永遠にも思えた。
うつむいたルークの耳に、女のため息が響いた。
「どこまで不器用なのでしょう、ねえ」
女の声は初めて会ったときのように、ざらつきと粘りを伴っていた。ただ声には棘はなかった。
「私が案内として行きましょう……他の者よりは、安全ですわ」
「しかし」
ルークは顔を上げた。エカテリニの瞳を今朝、始めて見た。
エカテリニの目は笑んでいた。
「クラモンドにはマルクがおります。私は独り身――気になさる必要はありません」
エカテリニはルークに二の句を継がせなかった。馬丁にルークの馬の手綱を握らせ、絶対に逃さないように鋭く告げ、きびすを返した。
「お待ちください。着替えて参りますので」
ルークはその背を見送るしかなかった。




