8話:灰の城と、赤のドレス
ルークは衛兵たちの介添えのもと、ヴァレンティン城に戻った。衛兵に肩を担がれ、客間へ入ったときには、すでに脱力と眠気は耐え難くなっていた。ルークは鎧を脱ぎ、たらい水に浸したボロ布で血を拭うだけで精一杯であった。
ベッドに倒れ伏し、なんとか靴を足で脱ぎ終わると、ルークは瞳を閉じた。
傍らには鞘に収まったクフィヤトが寄り添っていた。
幾時が経ったのか分からぬ中、覚醒とまどろみの中、ルークは目を薄く開けていた。客室は暗い。ノックの音と、扉越しに女の声がしていたが、内容は判別がつかなかった。
ルークは枕に頬をうずめ、扉に顔を背けていた。その耳に、蝶番の音だけが明瞭に響いた。
衣擦れと足音も。
「ルーク様」
うつ伏せで背中を見せるルークに声がかかった。不明瞭な意識は、体を起き上がらせようとした。だが、虚脱はベッドから離れることを許さなかった。
女の囁きが聞こえた。
イザベラの声だった。
「――ありがとうございます」
一言だけの謝辞に、ルークは瞳を閉じ、顔を挙げないまま、頷いた。
ルークの耳が、イザベラの息を吐く音を捉えた。ルークがその意味を判別することはないままに、衣擦れと足音が遠ざかる。扉を静かに閉める音とともに、再びルークの意識は沈んだ。
翌朝、夜明け前にルークは目を覚ました。虚脱はすでに身体の内に無かった。単なる疲労と、戦いで負った肩の打撲に顔をしかめ、ルークは起き上がった。
靴を履くと、寝床に横たわるクフィヤトを見つめた、その鍔を。
鍔の装飾には色はなかった。昨日、戦いで見た花の色は消えている。見間違いだったのか、とルークは振り返った。しかし、あの理外の化物との戦いは、鮮明に覚えていた。
あの時、確かに鍔に色はついていた。そして、色がついてから魔物の傷は再生をせず、花びらが吹き出した。
分からぬことがまだ多い。しかしルークはクフィヤトの本性、その一端を初めて知った。何が鍵となったかは分からぬが、鍔に色がつけばクフィヤトは力を発する。それは、大きな手がかりであった。ルークは腕を組んだ。ヴァレンティン城へ訪れてからの記憶を改めようとした。
しかし、思索は、己が腹の音に断たれた。
昨晩より、何も口にしていないことにルークは気づき、苦笑をした。それは、客間の扉が叩かれるのと同時であった。
ノックの主は、ヴァレンティンの使用人であった。使用人は朝食の準備が整っていると告げ、ルークは控えの間へと向かった。
控えの間ではすでにユラウスとイザベラが卓の前に座っていた。
ルーク殿、と立ち上がったユラウスの口ひげは大きく歪んでいた。
「まさか着いて一日で屠っていただけるとは、流石は放浪の鷹」
ユラウスの満面の笑みと声には安堵の響きがあった。父に続き、立ち上がったイザベラも頭を垂れ、謝辞を述べた。
「ルーク様、有難うございます……」
言葉少なの謝辞を告げたイザベラは、うつむいていた。ルークからは顔は殆ど見えなかったが、耳の赤らみが見えた。昨日の無礼な口利きをルークは思い出した。ユラウスに謙遜をのべながらも、騎士は要らぬ恥を令嬢にかかせた痛みを胸に抱えた。
「お疲れであろう、ルーク殿。朝餉としては豪勢ではあるが、召し上がっていただきたい」
ユラウスが手で指し示す卓には、朝とは思えぬほどの皿が並べられていた。焼いた腸詰め、塩漬けの肉をキャベツと共に茹でたスープ、蒸したにんじんと蕪、茹でた卵まである。
「夜も、食べていないであろう、王都に比べれば豪奢には劣るかも知れぬが」
「いえ、戦帰りの身であれば、これほどの量をいただけるだけでありがたく思います」
ルークは本心から告げた。腹の音がルークの言葉を後添えした。
ユラウスが大笑をあげるなか、苦笑したルークはおもてを上げたイザベラの顔に、目を留めた。
ほころぶ乙女の口元に、ルークも今朝初めて微笑んだ。そして椅子に座り、瞬く内に黒パンをともに、眼前の皿に盛られた料理を片付けていく。
目を見張るイザベラが小さな声を上げたが、ルークは手を止めることは無かった。無性に起きる空腹を燃料にすべてを平らげた頃にやっと人心地についた。
ルークは未だこちらを見つめるイザベラに眉尻を下げた。
「不調法な真似を」
イザベラは否定の言葉を薄い唇から小さく漏らし、ルークから視線をそらせた。
乙女の恥じらいをよそに、ユラウスが、薄めた葡萄酒の杯に口をつけ、ルークを見た。
「して、ルーク殿。これからは如何様に」
「私の役目は終わりましたので、本日にはここを発とうかと」
髪のなびく音がした。イザベラだった。
ルークへと顔を振り仰いだイザベラは、何かを引き止めるように、右手を上げていた。
「そんな、もう少し身体を休めてからでも」
「お気遣いはありがたくいただきます……しかし、放浪の鷹。次の任地もあれば」
眉尻を下げこちらを見つめるイザベラに、ルークは微笑んだ。短い間だったが、別れの寂しさを感じたのは、乙女のひたむきな、領民への思いのためであった。
気を利かせたユラウスによって、朝餉はそこで終わりを告げた。
控えの間をでて、手早く支度を済ませたルークは通りすがりの使用人たちに礼を告げながら、厩へと足を運んだ。すでにユラウスの手回しによるものか、馬丁は鐙と轡をルークの馬に着けて、準備を終えていた。
馬丁にも礼を言い、ルークはヴァレンティンの城門まで馬を引き連れた。
ユラウスとイザベラは門の前に立っていた。
「ではルーク殿、息災で」
ユラウスが差し出した右手を両手で包み、ルークは無言で頷いた。一晩の滞在であったが、無言で示したユラウスの気遣いは、ルークに名残惜しさと笑みをもたらしていた。
イザベラは目を伏せていた。短い別れの言葉をルークは告げたが、イザベラの応えは別れではなかった。
「あの、ルーク様」
イザベラは僅かに口を閉ざしたが、ルークは続きの言葉を待った。
乙女は何事かを告げようか、と口を開くが、言葉は出ず、そのまま俯いた。やがて顔を上げたイザベラは、首を傾げ、口元だけに笑みを浮かべていた。
「また……お越しください」
笑みを返し、首肯をし、ルークは馬にまたがると、ヴァレンティン城門をくぐり抜けていく。
マルクブルク王都へと馬を向けるなか、一度だけルークは後ろを振り返った。
すでにヴァレンティン城は掌大の大きさになっている。
しかし灰の城の前に、赤のドレスが見えた。




