6話:しこり
守るべき者たちの指を傷つけた自責を抱えたまま、ルークは鎧を着込んだ。レガンテの巡回をするためであった。自責は、魔物を一刻も早く屠るよう急かした。卓に置かれたクフィヤトを、鞘に収める際、クフィヤトの銘が目に止まった。
『正しいことを行え』
その一文をシコリのように抱えて、ルークはヴァレンティン城を出た。
日は中天を過ぎ、夕まで二刻ほどであった。馬に乗り畔を通る道すがら、ルークは辺りを満遍なく見回していた。農夫たちは働いていた。魔物が出ようが、麦の生育は待たない。今農作業を止めれば、秋に飢える。雑草取りに精を出している。怠れば牛を連れているものもいた。所々に点在する、農家の藁ぶきの屋根からは、煮炊きの煙が上がり始めている。腰を曲げた農夫たちの目は土に向いていたが、時おり腰を延ばすたびにあたりを見回した。眼は頻繁に、あちらこちらに探りを入れていた。
ルークは馬を走らせる思いを押し留めた。駆けさせたところで、魔物が見つかる保証はない。みだりに馬を疲れさせるだけであることは、承知だった。見回りのものに放浪の鷹であることを示す肩当てを見せ、報を伝えるように言うことが、今の彼にできる精一杯のところであった。
しかし、ルークの焦燥は長くはなかった。
始めに馬が反応した。前足を上げ、首を振り辺りを見回そうとしている。
レガンテ領を半周しかけた頃であった。日は赤く染まり、西に落ちかけていた。
どうした、とルークは馬に声をかけた。右手を手綱から外し、馬の首を撫でようとした、その時。
唸り声が上がった。聞き覚えのある唸りであった。
遠方からの唸りがこだまする中、ルークはあたりを見回す。どこにいる。
広がる田園の向こうに親指ほどの大きさのものがいた。その前に米粒ほどの大きさのものも。夜の気配が漂う空の下、米粒は親指に追われていた。
魔物だ。人が追われているのだ。ルークは馬を走らせた。距離はおよそ百馬身。怯えの響きを上げながらも、馬は魔物に向けて走り出した。
夜気が漂う空気を切り裂いて、騎士は魔物の元へと走り寄る。馬に揺られる中で、眼前の者たちの輪郭がはっきりし始めた。
農婦と魔物であった。
やはり、魔物の動きは人を弄ぶようだった。必死で逃げる中年の女に、魔物はゆうゆうと足を動かしつかつ離れずの距離をとっていた。時おり前腕をふるい、鋭き爪を女の背にかすめさせる。
魔物は驚くまでに表情を崩さなかった。猫が、窮鼠を弄ぶ姿であった。
ルークは馬を走らせながら、クフィヤトに手をかけたが、堪えた。馬に乗ったままでは、自身も馬も傷つける恐れがある。
あとおよそ五十馬身。間に合うか。
歯噛みをルークがした時だった。左から、馬に乗った赤の影が突き進んでくるのが、ルークの目に写った。
イザベラだった。
イザベラは、ドレスの裾をたくし上げ、礼儀など構わず馬にまたがり、魔物、いや農婦の許へと駆けていたのだ。馬によるのか、イザベラの技量なのか、疾い。
疾い。赤の流星が魔物の鼻先と農婦の間を通り過ぎた。何かが置きたわけではないが、気を取られた魔物が歩みを止め、イザベラへと顔を向けた。
「今のうちに、逃げなさい!」
イザベラの声が響いた。農婦に向けられたものだった。農婦はおめきを上げながら、ルークの方へと走りよってくる。
イザベラは手綱を握り、馬を旋回させた。
再び魔物の方へと近寄る。囮の動きであった。
動きを止めた魔物は首を動かし、その姿を追いかける。彼女へと獲物を鞍替えした魔物は身を縮め、イザベラの動きを追っていた。
「やめろ!」
ルークは叫んだ。魔物の距離まで、十馬身。全速力の馬の向きを右へ指図する。しかしそのときには、魔物は乙女に向けて跳ねていた。
遅ればせながら、イザベラの目は見開かれた。
魔物の豪腕は、まず馬の首を餌食とした。叩き潰すように馬の首が、魔物の腕の下で潰れた。
体のみとなった馬は、勢いのままに数歩足を踏み出したが均衡を崩した。ふらつきに、イザベラの身が宙に投げ出される。
短い悲鳴が聞こえた。
イザベラは田園の地に転がり落ちた。よろめきながら馬の血に汚れた身を起こし、膝をつこうとした。
それ以上に魔物の動きは早かった。イザベラに向けて、血に塗れた前腕を持ち上げた。
振り下ろされる。
その寸前、ルークの馬は魔物のそばまで走り寄っていた。
ルークは鐙を踏んだ。馬の背に足をかけ、跳ぶ。柄に手をかけ、クフィヤトが鞘走った。
魔物の前腕が天より振り下ろされる。業風が巻き上がる中、ルークはクフィヤトを横一文字に、頭上に掲げた。
イザベラを背にして。
突如割り込んできたルークに、魔物が光る目を見開く。クフィヤトの刃が前腕、魔物の手首に食い込む。するすると滑る刃が手首を切り落とす。
魔物の腕より、血のしぶきがほとばしった。
血を頭より浴びながら、ルークは、
「逃げろっ」
令嬢への礼節をかなぐり捨て、叫んだ。
背後でイザベラの弱い声と、土を踏む音がした。ルークは彼女の足音が遠ざかるのを聞きながら、魔物から目を離さなかった。
魔物の腕は、切り落とされていたが、すでにその傷口に泡が立っていた。昼間見たときのように、肉が盛り上がり、元の形に戻ろうとしている。
やはり、ただ斬れるだけでは無理なのか。
両手で剣を握り、正中に構えながらルークは、無数の次なる一手を模索した。斬ることは通じる。四肢を斬り落とす。いや、間に合わぬ。すでに十呼吸もせぬ内に魔物の腕は元の形に戻ろうとしている。
ルークは構え直した。剣の向こうの魔物の出方を伺おうとして、そこで、鍔に目を留めた。
鍔に刻まれた花の紋章、その一つに色がついていた。
このような装飾は無かったはずであった。
何故その事に気を取られたのか、ルークにも分からなかった。
しかしそれは、実戦で気にかけるべきことではなかった。
緩みを察知した魔物が、飛びかかってきたのだ。
業風。魔物の爪が光る。白い。
横殴りの右。
防ぐ間も与えられなかった。
魔物の右掌が、ルークの肩、腕にぶち当たる。肩の骨が軋む音を立てる中、ルークは飛ばされていた、横に。
背中から落ちたルークはとっさに転がり、立ち上がった。
肩の肉が打撲と熱で疼きを上げる。それでも上体が吹き飛んでいなかったのは、ひとえに鎧の魔術印のおかげであった。肩当てはへこみ、魔物の爪痕でえぐれている。
魔物が唸りを上げ、ゆうゆうとルークの真正面に顔を向けた。
ルークは再び構えた。真正面に剣を。口に入った農園の土を吐き出す。視界には魔物、その奥、遠くに赤のドレスが見えた。
何故逃げない。
ルークは再び歯噛みをし、叫びかけた。が、飲み込む。
違う。私が、眼の前のこれを斬らなければ、レガンテで無辜の命が流れる。
息を吸い、吐く。弄ぶような唸りを上げる魔物を見据えた。今、斬る。何としても、斬る。
胸の内にクフィヤトの銘が蘇った。
『正しいことを行え。私を振るうものに、罪はない』
正しいことを行い、斬れ。




