見えない手
アメリカと(ある国)の戦線は、数週間が過ぎても大きく動いていない。アメリカ軍は圧倒的な軍事力を持っていたが、地上では決定的な突破を作れず、(ある国)側も大きな損害を受けながら防衛線を維持していた。前線では砲撃が続き、後方では燃料と物資と金が消えていく。どちらも勝つために戦っていたが、どちらも決定的な勝利には届かなかった。
(ある国)の首都では、政府高官たちが集まっていた。
「このままでは、あと半年も持ちません」
「半年?」
「楽観的な数字です」
財務担当者が資料をめくる。「外貨が減っています。燃料の輸入も厳しい。工場も十分に稼働できていません」
「それでも戦うしかない」
軍人が言った。「ここで停戦すれば、我々が負けたことになる」
「では、勝てるのですか?」
その問いに、誰も答えなかった。
戦争を続ける理由はある。しかし、戦争を続けるための力は、少しずつ失われていた。
その頃、日本の山間にある黒崎の家では、黒崎が庭の手入れをしていた。伸びすぎた枝を切り、畑の土を確認する。世界のどこかで戦争が続いていることなど、静かな庭には関係がなかった。
「恒一、電話」
美咲が窓から声をかけた。
「誰?」
「会社」
「四人の誰か?」
「たぶん」
「分かった」
黒崎は家の中へ戻った。
机の上には、一枚の資料が置かれていた。東方カンパニーの海外事業についての報告だった。
かつて東方エネルギーと呼ばれていた会社は、今ではエネルギーだけの企業ではない。資源、電力、通信、物流、インフラ、半導体、防衛など、いくつもの分野に事業を広げている。
そして、その周囲には東方カンパニーから出資を受けた企業が増えていた。
「また増えたな」
黒崎が資料を見る。
「はい。東方カンパニーが三社買収しています」
「そう」
「そのうち一社が、さらに別の企業へ出資しています」
「……そうなの?」
「はい」
黒崎は資料をめくった。
そこには、黒崎が直接投資した覚えのない企業の名前まで並んでいた。
「これも?」
「東方カンパニーの関連会社です」
「こっちは?」
「その子会社です」
「……知らない会社ばかりだな」
四人のエキスパートが、少しだけ苦笑する。
「最近は、こちらでも全部を追うのが難しくなっています」
投資会社黒崎には、社員がいない。黒崎と美咲、そして四人のエキスパート。それだけだ。
それなのに、黒崎の資本を起点にして、世界中の企業が増えている。
黒崎が直接買った会社ではない。黒崎が指示したわけでもない。投資先が成長し、その企業が別の企業へ投資する。その企業がさらに別の会社を買う。
気づけば、黒崎の知らないところで、黒崎の資本につながる企業が増えていた。
「俺たちより、向こうの方が増えるのが早いな」
黒崎が言った。
「資本が勝手に増殖しています」
「まあ、悪いことじゃない」
黒崎は資料を机に置いた。
「ちゃんと儲かってるなら任せればいい」
それ以上、黒崎は追わなかった。
昔なら、一社ずつ確認していた。株を買い、決算を見る。経営者を見る。土地を調べる。自分で判断する。
しかし、今は違う。
黒崎が選んだ企業が成長する。その企業が判断する。その判断によって、さらに企業が動く。
黒崎が何かを命令する必要はない。最初に置いた資本だけが、次の資本を生み出していく。
黒崎は、いつの間にか企業そのものを見るのではなく、その企業が作る流れを見るようになっていた。
だから、戦争のニュースを見ても、最初に考えるのは戦場ではない。
港が止まる。物流が止まる。燃料が不足する。電力が落ちる。企業の生産が止まる。雇用が失われる。税収が減る。そして、国そのものが弱っていく。
黒崎には、それが一つの流れとして見えていた。
もともとは、ただの会社員だった。
株で失敗し、家族を失い、仕事も失った。その後、土地を買い、企業を買い、工場を買い、資源を買った。
最初は、自分が生き残るためだった。
だが、投資する金額が大きくなるほど、見える範囲が広がった。
一つの工場を見る。その工場に必要な電力を見る。電力を支える資源を見る。資源を運ぶ港を見る。港をつなぐ道路を見る。道路を使う人間を見る。人間が暮らす街を見る。そして、その街を動かす国を見る。
黒崎にとって、国家運営を考えているつもりはなかった。
企業が動くために何が必要なのか。それを考えているだけだった。
しかし、規模が大きくなれば、企業に必要なものは国に必要なものと重なっていく。
電力、水、道路、通信、教育、治安、外交、金融。
いつの間にか、企業を見るために国を見るようになっていた。
それが、普通の投資家と黒崎の違いだった。
黒崎は政治家ではない。国家を支配したいわけでもない。
ただ、自分の資本が生き残る世界を考え続けた。
その結果、世界そのものを見るようになった。
それが、黒崎が「魔王」と呼ばれる男になった理由の一つだった。
本人は、その呼び名を知らない。
魔王になろうとしたわけでもない。ただ力を失うことを恐れ、二度と何も持たない人間に戻らないために、力を積み上げた。
そして今、その力は本人の手を離れ始めている。
その頃、世界では別の動きが始まっていた。
(ある国)の政府へ、民間企業から復興計画が届いた。
「停戦した場合、これだけの資金を投入できます」
「資源供給も再開できます」
「港湾設備も復旧できます」
「電力網も再建できます」
政府高官が資料を見る。
「誰が作った?」
「複数企業です」
「中心になっている企業は?」
「分かりません」
「分からない?」
「企業同士が、それぞれ別の企業とつながっています」
資料には、いくつもの企業名が並んでいた。
その一つを調べれば、また別の企業につながる。さらに調べれば、その先に別の投資会社がある。
だが、最初に資金を動かした人間の姿までは見えない。
ただ一つだけ、世界中の金融資料を調べれば何度も同じ名前が出てくる企業があった。
東方カンパニー。
そして、その筆頭株主。
黒崎恒一。
しかし、その名前が今回の復興計画に直接関係している証拠はなかった。
政府高官は資料を閉じた。
「まあいい。今は復興案を検討しよう」
誰も、その先を調べなかった。
その頃、日本の山間にある黒崎の家。
黒崎は夕食を食べていた。
「今日もニュース、戦争の話ばかりね」
美咲がテレビを見る。
「まだ続いてる?」
「うん」
黒崎は味噌汁を飲む。
「そうか」
「気にならない?」
「何が?」
「世界中で戦争してるのに」
黒崎は少し考えた。
「俺が気にしても、戦争は終わらないだろ」
美咲が笑う。
「でも、あなたなら終わらせられるんじゃない?」
「俺は何もしてないよ」
「四人がやってる?」
「そう」
黒崎は淡々と答えた。
「俺は判断しただけ」
美咲は少し笑った。
「それが一番怖いんだけどね」
黒崎は返事をしなかった。
窓の外を見る。
静かな田舎の夜だった。
世界の反対側では、政府が停戦を検討し始めている。企業は復興後の市場を見ている。銀行は資金を動かそうとしている。
そして、その流れの一部は、黒崎が昔置いた資本から始まっていた。
黒崎自身は、それをすべて把握しているわけではない。
東方カンパニー以外では、自分の名前が表に出ることもほとんどない。
それでも、資本は動く。
企業が動く。
人が動く。
国まで動き始める。
黒崎が直接手を伸ばさなくても、見えない手が世界のあちこちへ伸びていく。
そして、その手の持ち主は、自分がどれほど遠くまで届いているのかさえ、まだ知らなかった。




