ボブ
夜だった。
銃声が続いていた。
B.A.は走っていた。
後ろから誰かが叫んでいる。
「B.A.!」
振り返る。
炎。
煙。
倒れている仲間。
その向こうから、また銃声。
「走れ!」
誰かが叫んだ。
B.A.は走った。
走るしかなかった。
足元が見えない。
何かに躓いた。
身体が前へ投げ出される。
地面が消えた。
落ちた。
冷たい。
臭い。
水とも泥とも分からないものが身体を包む。
息ができない。
B.A.は必死にもがいた。
手を伸ばす。
何かを掴む。
泥だった。
顔を上げる。
上には小さな穴。
そこから炎の光が漏れている。
ドブだった。
B.A.は這った。
何度も吐いた。
鼻の奥まで腐臭が入り込む。
服は泥と汚水で重い。
それでも進んだ。
後ろから銃声が聞こえる。
仲間の声も聞こえた。
そして――
聞こえなくなった。
朝。
B.A.が地上へ這い上がったとき、戦場は静まり返っていた。
焼けた車両。
散乱した武器。
倒れた仲間。
そして、誰もいない。
夕方。
捕まった。
目を覚ます。
狭い部屋だった。
窓はない。
両手は背中側で拘束されている。
足も固定されている。
目の前に椅子が一つ。
そこに老人が座っていた。
七十代後半。
痩せた身体。
白髪。
震える手。
今にも死にそうな老人。
なのに――
笑っていた。
「……背中かゆいな」
老人は身体を揺らした。
「おしっこしたいな……」
立ち上がる。
ふらふらと部屋を出ていく。
しばらくして戻ってくる。
「……ふふ」
笑っている。
B.A.を見る。
「僕はボブ」
それだけ言った。
そして、また笑う。
「くしゃみ出そうだな……」
B.A.は何も言わない。
「腹減ったな……」
ボブは水を置いた。
B.A.は手を伸ばせない。
ボブはしばらくB.A.を見る。
そして拘束を少し緩め、水を飲めるようにした。
B.A.は水を飲んだ。
ボブは満足そうに笑った。
「……寒いな」
「今日は寒い」
独り言。
それから突然尋ねる。
「仲間は何人だ?」
B.A.は答えない。
ボブは気にしない。
「眠いな……」
また笑う。
時間が過ぎた。
何時間なのか。
何日なのか。
B.A.には分からなくなった。
ボブは毎日やって来る。
「背中かゆいな」
「腹減ったな」
「おしっこしたいな」
「……くしゃみ、でかかったな」
ずっと笑っている。
B.A.が苦しんでいても。
黙っていても。
ボブは笑っている。
怒らない。
怒鳴らない。
憎まない。
ただ、そこにいる。
それがB.A.には一番怖かった。
ある日。
B.A.は拘束具を見た。
金具が少し緩んでいる。
何度も身体を動かしたせいだった。
指を動かす。
少しずつ。
何度も。
金具が擦れる。
痛い。
それでもやめない。
指が抜ける。
片手が自由になる。
B.A.は息を殺した。
もう片方も、時間をかければ外せる。
足の拘束も同じだ。
逃げられる。
そう分かった。
そのときだった。
「……眠いな」
ボブの声。
B.A.は顔を上げた。
いつも笑っている老人が、椅子に座っている。
だが、その日は少し違った。
呼吸が浅い。
身体がいつもより小さく見えた。
「……腹減ったな」
ボブは笑った。
B.A.は拘束具から手を離した。
逃げられる。
今なら。
それでも、動かなかった。
ボブは何も知らない。
自分がもう長くないことも。
ただ、いつものように独り言を続ける。
「……背中かゆいな」
「……今日は寒いな」
「……眠い」
B.A.は黙っていた。
初めてだった。
誰かに命令されていない。
逃げろとも言われていない。
ここに残れとも言われていない。
ただ、自分で決められる。
B.A.はボブの前に座った。
拘束されたまま。
老人のそばに。
ボブはB.A.を見る。
そして笑った。
「……変なの」
それが、珍しくB.A.に向けた言葉だった。
B.A.は答えない。
しばらく二人は黙っていた。
「……おしっこしたいな」
ボブが呟く。
B.A.は少しだけ笑いそうになった。
だが、笑えなかった。
ボブの呼吸が、さらにゆっくりになる。
「……眠いな」
目を閉じる。
B.A.は待った。
いつものように、また目を開けると思っていた。
だが――
開かなかった。
「……ボブ?」
返事はない。
B.A.は身体を前へ寄せた。
老人の肩に触れる。
動かない。
呼吸がない。
B.A.は動かなかった。
銃声もない。
怒鳴り声もない。
血もない。
誰もボブを殺していない。
ただ――
死んでいた。
B.A.は、その死を理解できなかった。
今まで見てきた死とは違う。
誰かに撃たれたわけではない。
誰かに刺されたわけでもない。
飢えて死んだわけでもない。
長く生きた身体が、ただ終わった。
それだけだった。
B.A.は初めて知った。
人は、誰にも殺されなくても死ぬ。
ボブは寿命で死んだ。
B.A.はしばらく、その場を動かなかった。
そして、老人の前で初めて考えた。
自分は、どう生きるのか。
何を食べるのか。
どこへ行くのか。
誰と生きるのか。
誰かに決めてもらうのではなく。
自分で。
B.A.はゆっくりと拘束具を見る。
そして、自分で外した。
金具が床に落ちる。
立ち上がる。
扉を見る。
鍵は掛かっていなかった。
B.A.は何も言わなかった。
そして、扉を開けた。
外は明るかった。
どこへ行けばいいのか分からない。
何をすればいいのかも分からない。
それでも、足を止めなかった。
右へ行くか。
左へ行くか。
B.A.は立ち止まり、しばらく考えた。
そして、自分で右を選んだ。
それだけだった。




