普通の男
日本に戻ってきた。
黒崎は、久しぶりに自分の部屋で朝を迎えた。
カーテンを開ける。
いつもの街。
いつもの道路。
いつもの朝。
海外で見た戦場とは違う。
日本は平和だった。
黒崎はコーヒーを飲みながら、新聞を開く。
経済欄を見る。
東方エネルギー。
海外資源。
復興投資。
インフラ。
株価。
どれも悪くない。
「……まだ上がるな」
小さく呟いた。
その日の午後。
黒崎は、ある金融機関の説明会に参加していた。
海外投資についての説明会だった。
会場には企業関係者や投資家が集まっている。
黒崎は後ろの席で話を聞いていた。
「今後、復興需要による海外投資が増えると考えられます」
担当者が説明する。
「ただし、政治リスクと治安リスクがあります」
黒崎は資料を見る。
数字。
予測。
資金の流れ。
しばらくして。
「この数字、おかしくないですか?」
隣から声がした。
黒崎が顔を向ける。
一人の女性が資料を見ていた。
「どこが?」
「この国への投資額です」
女性は数字を指差した。
「政府系資金を含めていますよね」
「そうですね」
「でも、民間資金は別です」
黒崎が資料を見る。
「……確かに」
「復興が進めば、民間資金も入ってきます」
黒崎は資料の別のページを開いた。
「電力が足りない」
「はい」
「道路も足りない」
「はい」
「通信も弱い」
「そうですね」
「だから、そこに金が入る」
女性が黒崎を見る。
「そう思います?」
「思うというより、必要になる」
黒崎は資料を指差した。
「人が戻る」
「ええ」
「工場が動く」
「はい」
「電気が必要になる」
「はい」
「道路も港も必要になる」
黒崎はさらに数字を見る。
「企業が入ってくれば、雇用も増える」
「そうですね」
「そうなれば消費も増える」
女性が少し黙った。
「……そこまで見てるんですか?」
「普通に考えれば分かることですよ」
黒崎は淡々と答えた。
「でも、今の株価にはそこまで織り込まれていない」
「なぜですか?」
「リスクがあるから」
「治安?」
「それもある」
黒崎は資料を見る。
「政治」
「資金」
「インフラ」
「全部です」
「だから、みんな買わない」
「そう」
「でも、あなたは買う」
黒崎は少し考えた。
「リスクがあるから安いんですよ」
女性の目が変わった。
「……なるほど」
「リスクが消えるのを待ってから買ったら、もう遅い」
黒崎は資料を閉じた。
「俺は、リスクが残っている今を見る」
女性はしばらく黒崎を見ていた。
「普通の投資家は、リスクが消えるのを待ちます」
「だから、利益も小さくなる」
女性が笑った。
「面白いですね」
「そうですか?」
「あなた、会社を見てない」
黒崎が顔を向ける。
「え?」
「会社の先を見てる」
女性は続けた。
「その会社が、これから必要になる理由まで見てる」
黒崎は黙った。
少しだけ。
その言葉が気になった。
「名前は?」
「神崎美咲です」
「黒崎恒一」
「知ってます」
「……そうですか」
「東方エネルギーの大株主ですよね」
「まあ」
「今回も買うんですか?」
黒崎は少し笑った。
「……まだ考えてます」
「嘘ですね」
「なぜ?」
「その顔は、もう決めてる顔です」
黒崎は苦笑した。
「買うかもしれません」
「やっぱり」
美咲が笑う。
それが。
二人の始まりだった。
それから。
二人は何度か会うようになった。
投資の話。
海外情勢。
企業の将来。
時には。
どうでもいい話もした。
「黒崎さんって、意外と普通ですね」
「どういう意味ですか?」
「もっと怖い人かと思ってました」
「俺は普通の会社員ですよ」
美咲が笑った。
「その冗談、もう無理がありますよ」
黒崎も少し笑った。
それから。
二人は自然と一緒にいるようになった。
黒崎は考えた。
美咲といると。
話が早い。
考えを説明する必要も少ない。
生活も合わせやすい。
仕事への理解もある。
ある夜。
黒崎が言った。
「俺たち、一緒にいた方がいいかもしれないな」
「どうして?」
「合理的だから」
美咲は黒崎を見る。
「合理的?」
「ああ」
黒崎は淡々と話す。
「考え方も合う」
「そうね」
「仕事の邪魔にもならない」
「ならないわね」
「生活を一緒にした方が、時間も使いやすい」
美咲が黙って聞く。
「家事も分担できる」
「うん」
「そうすれば、投資の調査や説明会にも時間を使える」
「……確かに」
「一人で全部やるより効率がいい」
黒崎は真剣だった。
恋愛の話をしているつもりはない。
ただ。
二人で生活した方が。
お互いに使える時間と労力が増える。
そう考えていた。
「一緒にいた方が、お互い楽だと思う」
美咲は少しだけ笑った。
「……そうね」
「じゃあ、そうしよう」
「うん」
恋愛の告白はなかった。
好きだと言うこともなかった。
ただ。
二人でいる方が合理的だった。
だから。
二人は一緒になった。
黒崎は。
それで十分だと思っていた。
美咲も。
そう思っているように見えた。
ただ。
美咲には。
黒崎には言わないことがあった。
合理的だから一緒にいる。
それは嘘ではない。
けれど。
それだけでもなかった。
数字を見る目。
危険を見抜く目。
誰より冷静なのに。
時々見せる、不器用な優しさ。
美咲は。
そういうところを知るたびに。
少しずつ。
黒崎に惹かれていった。
それを。
本人に伝えるつもりはなかった。
言葉にする必要もない。
態度に出す必要もない。
黒崎が気づかなくても。
それでよかった。
やがて。
二人は結婚した。
派手な式はしなかった。
静かなものだった。
そして。
子供が生まれた。
「お父さん」
小さな声。
黒崎は子供を抱き上げる。
「どうした?」
「だっこ」
「はいはい」
黒崎は笑った。
その顔には。
世界中の企業が恐れる男の影はなかった。
ただの父親だった。
子供は知らない。
父親がどれだけの金を持っているのか。
どれだけの企業に影響を持っているのか。
世界の経済に。
どれほど関わっているのか。
何も知らない。
知る必要もなかった。
「お父さんって、普通の会社員?」
ある日。
子供が美咲に聞いた。
「そうだよ」
美咲は笑った。
黒崎も何も言わなかった。
子供にとって。
父親は普通のサラリーマンだった。
朝に仕事へ行って。
夜に帰ってくる。
休日には家にいる。
それだけの父親。
その夜。
子供が眠ったあと。
美咲が黒崎を見る。
「……本当に、それでいいの?」
「何が?」
「この子には、何も教えない」
黒崎はしばらく黙った。
「いい」
「どうして?」
黒崎は眠っている子供を見る。
「普通でいてほしいから」
美咲は何も言わなかった。
「俺のことなんか知らなくていい」
「……そう」
「普通の父親だと思ってれば、それでいい」
美咲は静かに頷いた。
美咲には。
分かっていた。
黒崎が。
ただ金を増やしているだけの男ではないことを。
金を失うことを恐れていること。
力を持つほど。
人を信用しなくなっていること。
そして。
その奥に。
誰にも見せない黒いものを抱えていること。
それでも。
美咲は何も言わなかった。
黒崎も。
何も説明しなかった。
それでよかった。
家の中では。
ただの夫婦だった。
子供の前では。
ただの父親だった。
一方。
黒崎の資産は。
少しずつ。
しかし確実に増えていた。
東方エネルギー。
海外資源。
インフラ。
通信。
半導体。
エネルギー。
黒崎は。
世界の流れを見ていた。
そして。
その流れの先にあるものを。
誰よりも早く買っていった。
家に帰れば。
「おかえり」
「ただいま」
そんな会話をする。
子供に宿題を聞く。
テレビを見る。
休日には家族で出かける。
どこにでもいる。
普通の父親。
だが。
世界では。
少しずつ。
黒崎の名前を知る人間が増えていた。
その男が。
何を考えているのか。
誰も知らなかった。
ただ。
美咲だけは。
知っていた。
黒崎の中にある。
深い闇を。




