狂気の一手
黒崎は。
東方エネルギーの株価を見ていた。
三年前。
この株で大損した。
普通なら。
もう買わない。
大損した銘柄など。
怖くて触れない。
そして。
資金を一つの株に全部入れることもしない。
投資では。
いくつかの株や投資信託などに資金を分ける。
ポートフォリオ。
一つが駄目でも。
全部を失わないために。
それが。
普通だった。
黒崎も。
それくらいは知っていた。
「……普通はな」
黒崎は。
銀行の画面を開いた。
借りられる金額を見る。
限度額まで。
借りる。
証券口座を開く。
信用枠を見る。
こちらも。
全部使う。
そして。
東方エネルギーを買う。
現物。
信用。
借りた金。
全部。
東方エネルギー。
約定。
その瞬間。
黒崎は。
少しだけ息を吐いた。
「……」
不思議だった。
さっきまで頭の中を埋め尽くしていたものが。
一瞬だけ。
消えた。
父親の声。
会社。
退職。
勘当。
借金。
失敗。
そういうものが。
ほんの少しだけ遠くなる。
株を買っている間だけ。
何も考えなくていい。
黒崎は。
そのことに気づいた。
だから。
また買った。
約定。
また。
頭が静かになる。
また買う。
安堵する。
そして。
さらに買う。
気づけば。
使える金は。
ほとんど残っていなかった。
普通なら。
そこで止まる。
黒崎は。
止まらなかった。
分かっている。
自分が。
異常なことをしている。
それでも。
買っている間だけは。
忘れられた。
地獄から。
ほんの少しだけ。
逃げられた。
だから。
買った。
そしてまた。
買った。
東方エネルギー。
ほぼ一銘柄。
借金まで使った。
普通なら。
絶対にやらない。
黒崎も。
分かっていた。
それでも。
やめられなかった。
「……死ぬ気だ」
黒崎は。
そう呟いた。
その直後。
なぜか。
自然と笑っていた。
「……はは」
自分でも。
何がおかしいのか。
分からなかった。
ただ。
笑えた。
久しぶりに。
何も考えずに。
笑っていた。
死ぬ気で。
全部を賭ける。
そう決めた瞬間だけ。
胸の奥が。
妙に軽かった。
黒崎は。
もう一度。
東方エネルギーの株価を見る。
低い。
誰も期待していない。
誰も見向きもしない。
それでも。
黒崎には。
それだけで十分だった。
「……俺には、これしかない」
黒崎は。
また笑った。
その笑顔が。
自分でも気味が悪いほど。
自然だった。
もう。
退路はなかった。
――その頃。
世界中のニュース速報が。
一斉に流れ始めた。
『速報です』
『東方エネルギーが――』
テレビ。
スマートフォン。
インターネット。
あらゆる場所で。
同じ名前が。
繰り返された。
東方エネルギー。
その名前が。
この日。
世界を駆け巡ることになる。




