退路
黒崎は。
自分に残されたものを。
一つずつ確認した。
現金。
少ない。
仕事。
ない。
家族。
もういない。
信用。
ない。
そして。
失うことを恐れる理由も。
もう、ほとんど残っていなかった。
黒崎は。
銀行の画面を開いた。
借りられる金額を確認する。
限度額まで。
迷わず借りた。
次に。
証券口座を開く。
信用取引。
使える枠を確認する。
以前の黒崎なら。
ここで手が止まっていた。
借金。
信用取引。
失敗すれば。
取り返しがつかない。
それが分かっていたからだ。
実際。
三年前。
それで人生を壊した。
親に尻拭いをさせた。
祖母の土地まで巻き込んだ。
普通なら。
二度と同じことはしない。
それが。
普通の人間だ。
黒崎も。
そう思っていた。
だから三年間。
慎重に。
慎重に。
東方エネルギーを買い続けた。
少しずつ。
給料から。
生活費を除いた金だけを。
それでも。
最後には。
家族を失った。
仕事も失った。
信用も失った。
そして。
気づいた。
慎重に生きた結果。
自分には何も残らなかった。
「……」
黒崎は。
画面を見つめる。
借りられる金額。
信用枠。
そして。
東方エネルギーの株価。
指を動かす。
借りられる金を。
限度まで借りる。
信用枠を。
すべて使う。
そして。
東方エネルギーを買う。
買う。
さらに買う。
約定。
また買う。
約定。
保有株数が増えていく。
黒崎は。
その数字を。
ただ見つめていた。
怖くない。
いや。
正確には。
怖い。
怖いはずなのに。
その恐怖が。
以前とは違っていた。
昔は。
失敗するのが怖かった。
怒られるのが怖かった。
家族を失うのが怖かった。
仕事を失うのが怖かった。
未来がなくなるのが怖かった。
だから。
逃げた。
誰かに助けてもらった。
誰かに尻拭いをしてもらった。
そして。
そのたびに。
自分を嫌いになった。
今は。
違う。
もう。
失ってしまった。
家族も。
仕事も。
信用も。
居場所も。
全部。
なくなった。
なら。
これ以上。
何を恐れればいい。
黒崎は。
ふと。
そんなことを考えた。
そして。
自分自身に気づいた。
「……俺」
声が漏れる。
「もう、失うものがないんだ」
その言葉は。
悲しいはずだった。
絶望の言葉のはずだった。
なのに。
黒崎の胸には。
妙な解放感があった。
守るものがない。
失敗を恐れる必要もない。
誰かの期待に応える必要もない。
誰かに謝る必要もない。
もう。
自分の人生が壊れることを。
恐れる必要すらない。
なぜなら。
すでに一度。
壊れているからだ。
黒崎は。
椅子の背もたれに身体を預けた。
そして。
小さく笑った。
「……死ぬ気だ」
それは。
死にたいという意味ではなかった。
むしろ。
生きるためだった。
ただ。
以前のように。
普通に生きることを。
黒崎は捨てた。
安定。
常識。
世間体。
家族。
仕事。
信用。
そういうものを。
もう。
人生の基準にはしない。
残ったものは。
自分の命。
そして。
東方エネルギー。
だったら。
全部。
賭ければいい。
勝てば。
何かが変わる。
負ければ。
終わる。
それだけだった。
黒崎は。
もう一度。
株価を見る。
低い。
誰も期待していない。
誰も見向きもしない。
それが。
今の自分と重なった。
「……俺と同じだな」
誰にも期待されない。
誰にも必要とされない。
それでも。
まだ残っている。
黒崎は。
画面に表示された保有株数を見る。
以前なら。
この数字を見て。
不安になっていた。
今は。
違った。
むしろ。
安心していた。
もう。
後戻りできない。
だから。
迷わなくていい。
黒崎は。
パソコンを閉じた。
部屋は暗くなった。
窓の外を見る。
街には。
明日も普通の日常が続く。
会社へ行く人間。
家族と暮らす人間。
将来を考える人間。
黒崎には。
もう。
その世界が遠かった。
羨ましいとは。
思わなかった。
戻りたいとも。
思わなかった。
ただ。
一つだけ。
胸の奥に残っていた。
意地。
いや。
執念。
「……俺は」
黒崎は。
暗い部屋で呟いた。
「まだ終わってない」
誰に言うでもない。
自分に言い聞かせるように。
その日。
黒崎は。
自分の未来を。
一つの会社に預けた。
金だけではない。
信用でもない。
人生そのものを。
そして。
黒崎は。
死ぬ気で生きることを。
初めて決めた。




