第2話
社会人になって、三か月が過ぎた。
「……疲れた」
黒崎恒一は、電車の窓に映った自分の顔を見て呟いた。
二十二歳。
大学を卒業して、都内の中堅企業に就職した。
朝は六時半に起きる。
満員電車に揺られ、会社に着く。
上司に挨拶をして、パソコンを立ち上げる。
電話を取って、資料を作って、コピーをして。
昼休みが終われば、また仕事。
そして定時を少し過ぎた頃、先輩から声を掛けられる。
「黒崎、これ今日中に頼める?」
「……はい」
断れるはずもない。
結局、その日も会社を出たのは午後八時を過ぎていた。
駅へ向かいながら、恒一はスマートフォンを取り出した。
給料日まで、あと三日。
銀行口座の残高を確認する。
「……まあ、こんなもんか」
実家暮らしだから、生活に困っているわけではない。
毎月少しずつ貯金もしている。
学生時代にアルバイトで貯めた金も含めれば、百万円以上はあった。
だが、それをどうするかと聞かれれば、特に考えていなかった。
銀行に置いておく。
それだけだった。
駅前の書店に入る。
特に目的はない。
雑誌を眺め、漫画を立ち読みし、何となく経済雑誌のコーナーへ向かう。
そこで、一冊の雑誌が目に入った。
『今、注目すべき成長企業50選』
「……株か」
これまで株には興味がなかった。
怖いものだと思っていた。
テレビでは、
――株で大儲け!
――投資で資産一億円!
なんて話を見かける。
逆に、
――株価暴落。
――投資で全財産を失う。
なんて話もある。
「まあ、俺には関係ないか」
雑誌を戻そうとした。
そのときだった。
ある企業の記事が目に入った。
東方エネルギー株式会社。
エネルギー関連の中堅企業。
海外事業を積極的に展開しているらしい。
恒一は記事を読む。
「へえ……」
特別な理由はなかった。
ただ、何となく気になった。
その会社が扱っている事業が、少し面白そうだった。
帰宅すると、恒一はパソコンを開いた。
検索したのは、先ほどの会社だった。
企業情報。
株価。
ニュース。
掲示板。
そして株式情報サイト――
『マーケット・ビュー』
画面には、東方エネルギーの株価が表示されていた。
一株120円。
「安いな」
もちろん、株価が安いから会社そのものが割安という意味ではない。
そんなことすら、この時の恒一にはよく分かっていなかった。
ただ、
「三十万円くらいなら……」
と思った。
貯金は十分ある。
仮に全部なくなっても、すぐに生活が苦しくなるわけではない。
それに、少しくらい投資を経験してみてもいい。
そう思った。
翌日。
恒一は証券口座を開いた。
そして――
一株120円で、2,500株。
合計30万円。
初めての株を購入した。
「……買っちゃった」
画面に表示された数字を見つめる。
三十万円。
自分にとっては決して小さな金額ではない。
心臓が少しだけ速くなった。
だが――
翌日。
「……下がってる」
株価は110円。
さらに翌日。
105円。
その翌週には、
100円。
「……」
恒一はスマートフォンを閉じた。
「やっぱ株なんてやるもんじゃないな」
そう思った。
しかし、売らなかった。
なぜか。
理由は自分でも分からなかった。
ただ、その会社のニュースを見るのが少し面白くなっていた。
マーケット・ビューを開く。
株価を見る。
新しいニュースを見る。
掲示板を見る。
「また下がってる……」
それでも毎日見る。
最初は株価しか見なかった。
やがて、会社のニュースを見るようになった。
海外で新しい事業を始めた。
新しい取引先が決まった。
政府から大型案件を受注した。
競合企業が撤退した。
「……なるほど」
少しずつ、株価の向こう側にある「会社」というものが見えてきた。
それが、恒一には面白かった。
ある金曜日。
いつものようにスマートフォンを開いた。
すると、見慣れない表示が目に入った。
東方エネルギー株式会社
前日終値 120円
本日終値 170円
ストップ高。
「……え?」
恒一は画面を見つめた。
ニュース欄には、海外事業に関する速報が出ていた。
東方エネルギーが、長年探査を続けていた地域で大規模な資源開発に成功したという。
「マジかよ……」
翌営業日。
またストップ高。
170円から220円。
その翌日。
220円から300円。
さらに――
380円。
480円。
580円。
680円。
780円。
マーケット・ビューを開くたびに、画面には同じ文字が表示されていた。
ストップ高。
「……なんだこれ」
株価はまるで別の生き物のように跳ね上がっていく。
三十万円だった投資額が、
四十二万五千円。
五十五万円。
七十五万円。
九十五万円。
一百二十万円。
一百四十五万円。
一百七十万円。
そして――
百九十五万円。
「…………」
恒一はスマートフォンを持ったまま固まった。
三十万円だった。
確かに三十万円だった。
それが、たった数週間で約六倍。
「……株って、こんなことになるのかよ」
その日の夜。
恒一は夕食を食べながら、何度もスマートフォンを確認した。
父親が呆れたように言う。
「お前、さっきから何見てるんだ?」
「株」
「まだやってるのか?」
「うん」
「いくらになった?」
恒一は少し考えてから答えた。
「……百九十五万」
「は?」
父親の箸が止まった。
母親も振り返る。
「三十万が?」
「うん」
「売れば?」
母親が言った。
「うーん……」
恒一は画面を見る。
売れば、大きな利益になる。
学生時代から貯めてきた金よりも大きい。
だが――
「もう少し持ってみる」
「欲張ると損するわよ」
「分かってる」
そう答えながらも、恒一自身、なぜ売らないのか分からなかった。
ただ――
もう少し、この世界を見てみたかった。
翌週。
東方エネルギーの株価は一時800円を超えた。
恒一の2,500株は、評価額200万円を超えた。
その瞬間。
彼は初めて思った。
「もっと知りたい」
株価は何で動くのか。
企業はどうやって大きくなるのか。
なぜ、ある会社は伸びて、ある会社は消えていくのか。
世界の金は、どこへ流れているのか。
その夜。
恒一はマーケット・ビューを閉じなかった。
午前一時を過ぎても、画面を見続けていた。
まだ、誰も彼の名前を知らない。
まだ、彼を恐れる者もいない。
まだ、彼を「魔王」と呼ぶ者など、世界のどこにもいない。
黒崎恒一。
二十二歳。
都内の中堅企業に勤める、どこにでもいる会社員。
この日、彼は初めて――
「資本」という力の存在を知った。
そして、その力に魅せられていく。
それが後に、
国家を動かし、
東側世界を変え、
世界の勢力図そのものを塗り替えることになるとは――
本人はまだ、知る由もなかった。




