火種
アメリカの諜報機関は、押しも押されぬ世界第一位の情報収集能力を誇っていた。
世界各地に張り巡らされた情報網。政府関係者、企業、研究機関、軍、金融機関。その中には、長い年月をかけて築かれた人脈もあれば、誰にも存在を知られていない諜報員もいる。
その正体を見破ることは容易ではない。
ヴィクター率いる連邦にも、新安共和国にも、すでにアメリカの諜報員は入り込んでいた。
彼らは目立たない。研究者の助手、企業の職員、行政関係者、あるいはただの市民。それぞれが与えられた役割を果たしながら、日々の変化を観察していた。
集められた情報は、暗号化され、アメリカ本国へ送られていく。
軍事、外交、経済、産業、研究開発。
世界中から集められた情報を分析し、国家戦略へとつなげる。それがアメリカの強みだった。
しかし――。
ある日の情報分析室では、普段とは違う緊張感が漂っていた。
大型モニターに映し出されているのは、連邦と新安共和国に関する情報だった。
担当者が資料を手に取る。
「連邦について報告があります」
「話せ」
「核融合技術です」
室内の視線が集まる。
「連邦では、核融合発電がすでに実用化されています。各地で稼働しているとの情報です」
「量子コンピュータは?」
「こちらも実用化済みです。それに付随する高度AI技術も、すでに産業や社会へ組み込まれています」
「現在の性能は?」
担当者が一瞬、言葉を詰まらせる。
「……最新情報が取れていません」
「いつの情報だ?」
「数か月前のものです」
「数か月?」
「はい。現時点では、これが確認できている最新情報です」
室内が静まり返った。
「遅すぎる」
誰かが呟いた。
担当者は次の資料を表示する。
「新安共和国についても情報があります」
「内容は?」
「総合都市の開発に着手したとの報告です」
「地球エネルギーについては?」
「研究が進められていることは確認されています。ただし、まだ実証段階です。一般市場への普及には至っていません」
「こちらも最新情報ではないのか?」
「はい。都市開発についても、現在どこまで進んでいるのか確認できていません」
幹部の一人が机を指で叩いた。
「我々の諜報員は何をしている?」
「活動は継続しています」
「なら、なぜ最新情報が入ってこない?」
担当者は答えに詰まった。
情報網が崩壊したわけではない。
諜報員が捕まったわけでもない。
通信網も機能している。
それなのに――。
情報だけが追いついていない。
「東方カンパニーは?」
「……さらに厳しい状況です」
「何が分かっている?」
「過去の事業拡大、企業構造、公開情報については把握しています。しかし、新技術関連についてはほとんど掴めていません」
「ほとんど?」
「はい」
担当者は慎重に続ける。
「研究施設への接触も試みていますが、内部情報へのアクセスは非常に限定されています」
幹部の一人が椅子にもたれた。
「世界第一位の諜報機関が、最新情報を取れない……か」
誰も否定できなかった。
アメリカは、これまで世界中の情報を握ってきた。
国家の動向を把握し、企業の動きを読み、軍事技術の発展を追跡してきた。
だからこそ、今回の状況は異常だった。
「情報の遅れは、そのまま国家の遅れになる」
幹部が静かに言った。
「至急、最新情報を取れ」
「了解しました」
「連邦、新安共和国、東方カンパニー。すべてだ」
「承知しました」
担当者が部屋を出ていく。
扉が閉まる。
残された幹部たちは、しばらく沈黙していた。
アメリカは今も世界有数の大国であり、世界第一位ともいえる諜報能力を持っている。
だが――。
世界を見ているはずの自分たちが、世界の変化に置いていかれている。
その事実が、幹部たちの胸に重くのしかかっていた。
そして、その焦りは経済政策にも影響を及ぼしていく。
アメリカ国内では、経済の停滞も深刻化していた。
世界では、新しい技術による産業構造の変化が始まっている。
連邦では、核融合発電がすでに実用化され、量子コンピュータと、それに付随する高度AI技術まで実際の社会に組み込まれている。
それはもはや未来の技術ではない。
すでに市場で使われている現実の技術だった。
一方、新安共和国の地球エネルギーは、まだ実証段階にある。
一般家庭や企業が自由に利用できる技術ではない。
だが、もし実証に成功し、実用化されれば――。
エネルギー産業そのものを根底から変える可能性がある。
そして、その新安共和国と深く結びついているのが東方カンパニーだった。
エネルギー、製造、物流、土地、技術、人材。
東方カンパニーは、すでに一企業という枠を越え、巨大な産業基盤そのものになりつつあった。
対してアメリカには、これまで築き上げてきた巨大な市場と産業基盤がある。
化石燃料。
原子力。
製造業。
金融。
そして世界最大級の消費市場。
それらは現在もアメリカ経済を支える重要な基盤だった。
しかし、連邦の技術がすでに実用化され、新安共和国ではさらに未知のエネルギー技術が実証段階へ入っている。
アメリカ国内では、危機感が強まっていた。
政府内では、経済の停滞を打破し、自国産業を守るべきだという声が日に日に大きくなっていった。
そしてついに、合衆国大統領が声明を発表した。
「我々は、アメリカ国民の利益を最優先とする」
世界中が、その声明に注目した。
「これまで我々は、自由な貿易と国際協力を重視してきた。しかし、世界の産業構造が大きく変化する中、我々自身の産業と雇用を守らなければならない」
そして、次の言葉が世界を揺らした。
「連邦、新安共和国、そして東方カンパニーから輸入される製品について、必要であれば最大100パーセントの関税を課す」
100パーセント。
単なる貿易調整ではない。
連邦から輸入される核融合関連製品、量子コンピュータ、高度AI関連製品。
それらはすでに実用化され、市場で実際に使用されている。
新安共和国については、地球エネルギーそのものがまだ実証段階であるため、現時点で一般市場に大量の製品が流通しているわけではない。
それでも、新安共和国から輸入される既存の製品や技術、そして今後実用化される可能性のある技術に対して、アメリカは警戒を強めていた。
そして東方カンパニーからは、エネルギー設備、製造設備、物流関連機器、各種産業製品が世界へ供給されている。
つまりアメリカが関税の対象として見ているのは、まだ存在しない未来の製品だけではない。
すでに世界市場で競争している製品だった。
「これで国内産業を守れるでしょうか?」
政府関係者の一人が尋ねる。
「少なくとも、何もしないよりはいい」
「しかし、相手も黙ってはいないでしょう」
誰もが分かっていた。
関税をかければ、相手国も対抗措置を取る可能性がある。
輸入品の価格は上昇し、企業は調達先の変更を迫られる。
そして、その影響はアメリカ国内だけに留まらない。
連邦には、すでに実用化された核融合と量子コンピュータ、そして高度AIがある。
新安共和国には、まだ実証段階ではあるものの、地球エネルギーという未知の技術がある。
東方カンパニーには、それらを含む巨大な産業基盤がある。
対するアメリカには、巨大な市場と、これまで世界を支えてきた既存産業がある。
それぞれが異なる強みを持っている。
だからこそ、簡単には譲れない。
アメリカ政府の声明を受け、連邦では緊急の情報収集が始まった。
新安共和国でも、政府関係者が対応について協議を始める。
そして東方カンパニーでは、幹部たちのもとへ次々と報告が届いていた。
「100パーセント……ですか」
幹部の一人が資料を見つめる。
「どうやら、その可能性があるようです」
「そうか」
短い返事。
誰も慌ててはいなかった。
ただ、その数字が意味するものを全員が理解していた。
世界は、軍事ではなく経済によって互いの力を測ろうとしている。
技術を持つ側。
市場を持つ側。
そして、その双方を守ろうとする側。
これまで築かれてきた国際経済の構造が、少しずつ変わり始めていた。
そして誰もが理解していた。
これは、まだ始まりに過ぎない。
世界規模の経済戦争。
その火種が、ついに表へ出た。




