黒崎夫婦の海外旅行 第2話
世界一周クルーズに出て二十日ほど。
マレーシア、シンガポールを巡り、二人は中東へ入っていた。ドバイでは数日間、観光を楽しんだ。
そして次の寄港地は、ヴィクターの国だった。
ヴィクターの国は、貴金属の産出が多いことでも知られている。
金や銀を使った装飾品は、この国の名産品の一つだった。
港に船が入る。
黒崎と美咲は、他の乗客と一緒に下船した。
「次はここか」
「そうね。あなた、仕事で来たことある?」
「ある。でも今回は旅行だ」
「仕事のことは忘れてね」
「分かってる」
その頃。
ヴィクターの国の政府機関では、慌ただしく情報が飛び交っていた。
「何?」
「黒崎本人です」
「待て。あの黒崎か?」
「はい」
「いつ入港する?」
「もう港内に入っています!」
「政府には報告したのか?」
「今、上げています!」
「警備は?」
「通常の客船対応です!」
「通常のままでいいわけがないだろ!」
「しかし、本人は観光目的と思われます!」
「それでもだ!」
政府は即座に警備体制を組み直した。
ただし、黒崎本人には絶対に気づかせない。
表向きは、いつも通りの観光客対応。
その裏では、政府のシークレットサービスが動き始めていた。
港を出れば、数人の警護担当が一定の距離を保ってついていく。
市場では周囲の人間を確認し、交差点では先回りして安全を確認する。
黒崎夫妻の進行方向には、常に誰かがいる。
それでも二人は気づかない。
「思ったより暑いな」
「中東だからね」
二人はのんびりと港を出て、街へ向かった。
市場を歩き、店を眺め、気になった料理を食べる。
やがて、貴金属を扱う店の前で美咲が足を止めた。
ショーケースには、金や銀を使った指輪やネックレスが並んでいる。
「あなた、見て」
「ん?」
美咲が指差す。
「綺麗な指輪ね」
黒崎もショーケースを覗き込む。
「本当だな」
美咲は指輪を眺めながら、少し笑った。
「そういえば、そういったものもあまり渡せてないな」
「これ、ほしいなぁ」
美咲が指輪を見る。
黒崎は少し考えた。
「そうだな」
そして、店員を呼ぶ。
「記念にペアリング買おうか」
「やったぁ」
美咲が嬉しそうに笑った。
二人が指輪を選んでいる間も、店の外では警護担当が周囲を警戒していた。
「店内、問題なし」
「了解」
「本人たちは?」
「買い物を楽しんでいます」
「そのまま続けろ」
誰も店の中へは入らない。
黒崎夫妻は、そんなこととは知らずに指輪を選んでいた。
「これ、どう?」
「いいんじゃないか」
「じゃあ、これにする」
「二つください」
店員が笑顔で包みを用意する。
黒崎は受け取った箱を見る。
「旅行の記念には、ちょうどいいな」
「うん」
美咲は嬉しそうに頷いた。
その頃、ヴィクターのもとにも報告が届いていた。
「黒崎が到着しました」
「東方カンパニーの関係者は?」
「確認できません」
「目的は?」
「不明です。ただ、本人は完全に観光客として行動しています」
ヴィクターは少し考えた。
「旅行か」
「どうしますか?」
「何もしない」
側近が驚く。
「しかし……」
「旅行に来た人間を、こちらから騒がせる必要はない」
ヴィクターは静かに言った。
「今は、客人だ」
だが、その頃、ヴィクターだけが対応を考えていたわけではなかった。
連邦議会では、緊急招集がかけられていた。
突然集められた議員たちが議場に入り、次々と資料を受け取っていく。
「黒崎が、この国に?」
「はい。本人確認も取れています」
「東方カンパニーの活動は?」
「現在のところ、確認されていません」
「それなら、なぜ緊急招集まで?」
担当官が答える。
「本人の行動だけでなく、今後の影響を協議するためです」
議員たちの間にざわめきが広がる。
「入国しただけだろう?」
「そうです」
「それで国家レベルの会議か?」
「黒崎だからです」
別の議員が資料をめくる。
「警備体制は?」
「すでにヴィクター側で強化されています。ただし、本人には悟らせない方針です」
「……徹底しているな」
「当然でしょう」
議会では、黒崎の滞在中に何か問題が起きた場合の対応や、政府としてどこまで関与するべきかについて協議が続いていた。
一方、その頃。
黒崎夫妻の周囲には、相変わらず警護担当が張り付いていた。
「本人、気づいていません」
「そのまま続けろ」
「了解」
黒崎は買ったばかりの指輪の箱を眺めた。
「しかし……」
「何?」
「どこの国に行っても、すごく歓待されるんだが……」
美咲が吹き出した。
「そりゃ、あなたですから」
「俺、ただの旅行客なんだけどな」
「向こうからしたら、そうじゃないんじゃない?」
「……旅行くらい普通にさせてくれ」
美咲は笑いながら隣を歩く。
二人の少し後ろでは、警護担当が真顔で歩いていた。
「次の交差点、先行します」
「了解」
黒崎夫妻は、その会話にも気づかない。
やがて船は、次の寄港地へ向けて出港する。
二人の指には、この国で買った新しいペアリングがあった。
黒崎夫婦は、そんなことなど知る由もない。
ただ、次の寄港地を楽しみにしていた。
その頃、ヴィクターと連邦議会の面々は――。
大きなため息をついた。




