東の脅威
「三年です」
報告を聞いたヴィクターは、資料から顔を上げた。
「三年?」
「はい。新安共和国の電力網です。東方カンパニーが中心となって再建を進めています。発電所だけではありません。送電網、変電設備、関連する物流まで、一体で整備しているようです」
ヴィクターは資料をめくった。
東方エネルギー。
その名前は、ヴィクターにとって特別なものだった。
幼い頃から見てきた巨大なプラント。煙突。送電線。夜になれば明かりが灯る工場。貧しい土地に突然現れた巨大な施設。
それが、ヴィクターにとっての原風景の一つだった。
「あの東方エネルギーが、今では東方カンパニーの一部になっているのか」
「はい。現在の東方カンパニーは、エネルギーだけではありません。製造、土地、技術、物流、人材まで事業を広げています」
ヴィクターは資料をめくっていく。
企業の一覧。
関連会社。
事業分野。
そして、主要株主の一覧。
その中に、小さく記された数字があった。
五十一パーセント。
ヴィクターは一度、その数字を見た。
だが、すぐに次の資料へ視線を移した。
「東方カンパニーの経営は?」
「社長以下、経営陣が行っています」
「黒崎は?」
「主要株主です」
「それだけか?」
担当者が資料を確認する。
「いえ。投資会社『黒崎』が、東方カンパニーの株式を五十一パーセント保有しています」
ヴィクターの手が止まった。
「五十一?」
「はい」
今度は、数字から目を離さなかった。
五十一パーセント。
その意味を、ヴィクターは知っている。
「……それで、経営判断はどうなっている?」
「日常の経営は、東方カンパニーの社長と経営陣が行っています」
「黒崎が直接、会社を動かしているわけではない?」
「はい」
「では、重要な案件は?」
「まず東方カンパニー内部で検討します。各部門が精査し、経営陣がまとめる。その後、投資会社『黒崎』の四人の専門家が確認します」
「そして?」
「最後に、黒崎恒一と美咲が判断します」
ヴィクターは黙って資料を見つめた。
会社を動かすのは社長と経営陣。
だが、重要な判断は最後に投資会社「黒崎」へ戻ってくる。
そして、その投資会社が東方カンパニーの過半数を握っている。
「……なるほど」
ヴィクターは背もたれに身体を預けた。
これまでにも、巨大企業は見てきた。
だが、東方カンパニーは少し違う。
エネルギー。
製造。
物流。
土地。
技術。
人材。
一つ一つを見れば、それぞれ別の事業だ。
だが、東方カンパニーはそれらをつないでいる。
電力があれば工場が動く。
工場が動けば人が働く。
製品ができれば物流が必要になる。
物流が動けば港が必要になる。
資源が必要になれば、土地と技術が必要になる。
そして、そこには人が集まる。
ヴィクターは、そこで初めて気づいた。
「……企業ではないな」
担当者が顔を上げる。
「はい?」
「いや」
ヴィクターは資料に目を落とした。
「企業という形をしているだけだ」
東方カンパニーが握っているのは、企業の利益だけではない。
国が生きるために必要なものだ。
新安共和国でも、それはすでに始まっている。
政府が弱った。
その隙間に東方カンパニーが入った。
電気を復旧させる。
道路を整える。
港を直す。
工場を動かす。
物流を戻す。
仕事を作る。
政府が国民に与えられなかったものを、企業が先に与えていく。
ヴィクターは静かに呟いた。
「政府を支配する必要すらない……」
誰も口を挟まなかった。
「政府が必要とするものを、先に持てばいい」
電力。
物流。
資本。
技術。
雇用。
それらを一つの企業グループがつないでいく。
その中心には、東方カンパニーの経営陣がいる。
そして、その上に投資会社「黒崎」がある。
五十一パーセント。
ヴィクターは、もう一度その数字を見た。
「……黒崎は、国を取ろうとしているのか?」
「現時点で、そのような動きは確認されていません」
「そうか」
ヴィクターは資料を閉じた。
敵だという証拠はない。
自分の国を狙っているという証拠もない。
それでも、無視することはできなかった。
自分は、人を集めた。
組織を作った。
軍を作った。
そして、国を作った。
そうやって力を積み上げてきた。
だが、黒崎は違う。
軍を持つ必要もない。
政府の席に座る必要もない。
国を奪う必要すらない。
人々が生きるために必要なものを握ればいい。
そうすれば、国家の側から東方カンパニーを必要とするようになる。
ヴィクターは自分の国の地図へ視線を移した。
そこにも、東方カンパニーの施設がある。
それは今に始まったことではない。
ヴィクターが幼い頃から存在していた。
だからこそ、施設そのものを警戒していたわけではなかった。
問題は、その背後にいる企業が、昔とはまったく違う存在になっていることだった。
「国内の技術情報への接触経路を確認しろ」
「東方カンパニーを?」
「それだけじゃない」
ヴィクターは続けた。
「研究者。技術者。管理職。取引先。異動した人間。退職した人間。誰が、どこへ情報を持ち出せるのか調べろ」
「分かりました」
「東方カンパニーを疑っているわけではない」
ヴィクターはそう言った。
「昔から、ここには東方の施設がある。今さら、それだけを問題にするつもりはない」
一度、言葉を切る。
「だが、東方カンパニーが昔とは別の規模になっている」
ヴィクターは資料を閉じた。
「こちらも備えておく必要がある」
そして、別の資料を見る。
「自由技術研究院は?」
「現在も情報封鎖を維持しています」
「完全に?」
「はい。技術院内部の情報は外部に出ないよう管理されています」
「その状態を維持しろ」
ヴィクターは顔を上げた。
「システムだけじゃない。人間もだ」
「人間……ですか?」
「技術は人間が持っている」
研究者。
技術者。
管理者。
その一人が動けば、情報も動く。
「アランを呼べ」
しばらくして、アランが部屋に入ってきた。
「何でしょう」
「技術情報の管理をさらに強化する」
ヴィクターは短く説明した。
国内の技術情報。
東方カンパニーの施設。
そして、情報管理はシステムだけでは不十分だということ。
アランは黙って聞いた。
「東方カンパニーを疑っているのですか?」
「まだだ」
ヴィクターは答えた。
「ただ、準備しておく」
アランが頷く。
「分かりました」
ヴィクターは窓の外を見た。
西の世界では、自分が国を動かしている。
人が集まり、組織ができ、国境を越えて力が広がっている。
だが東には。
幼い頃から知っている企業がある。
かつては一つのプラントだった。
今では、国の中に根を張り、企業をつなぎ、人をつなぎ、土地と技術と物流までつないでいる。
そして、その過半数を握る投資会社がある。
その最終判断をする男がいる。
ヴィクターは静かに呟いた。
「敵ではない」
少し間を置いて、続ける。
「だが……脅威だ」
同じ頃。
滋賀の自宅では、黒崎がテレビを見ながらビールを飲んでいた。
「今日、何食べる?」
美咲の声に、黒崎が振り返る。
「何でもいいよ」
世界の反対側で警戒が始まっていることなど、黒崎は知らない。
黒崎にとっては、いつもの夜だった。




