普通のおっさん、世界を動かす
新安共和国の制度が整い始めた頃、最後まで決まっていないものがあった。
国家と東方カンパニー、その両方に関わる重要事項を、最終的に誰が判断するのか。
新安には大統領がいる。首相もいる。議会も各省庁もある。東方カンパニーには社長と経営陣がいる。
それぞれが自分の役割を持っている。
だが、国家の存続や企業の将来を左右する案件になると、その資料は最後には日本へ送られていた。
投資会社「黒崎」。
黒崎夫妻と四人の専門家。
六人だけの会社だった。
「現状のままでは、責任の所在が曖昧です」
新安政府の法務担当者が、東方カンパニーの経営陣に説明する。
「新安政府が決めるのか。東方カンパニーが決めるのか。それとも投資会社『黒崎』なのか」
社長が資料を見る。
「実際には、重要な案件ほど六人の判断を仰いでいる」
「ええ。だからこそ、制度にします」
法務担当者は資料を開いた。
「国家安全保障、基幹インフラ、重要資源、大規模な財政支出、国家経済に重大な影響を与える政策などを、国家戦略評議会の審議対象とします」
「構成は?」
「新安政府、東方カンパニー、そして投資会社『黒崎』です」
「六人全員が参加する?」
「はい」
「最終的には?」
「投資会社『黒崎』六名の承認を必要とします」
社長は黙って資料を閉じた。
「今までと何が違う?」
「何も変わりません」
法務担当者は答えた。
「変わるのは、これまで暗黙だったものを、正式な制度にすることです」
その話が進む一方で、東方カンパニーの経営陣から黒崎のもとへ、別の提案が届いていた。
「滋賀へ移られてはいかがでしょうか」
黒崎は資料から顔を上げた。
「滋賀?」
「はい。新安とのやり取りが増えています。日本政府との調整も増えました」
「東京でなくても?」
「むしろ、今の状況なら滋賀の方がいいかもしれません」
理由はいくつもあった。
滋賀には、黒崎が昔から開発してきた土地がある。
工場。道路。電力。物流。住宅。
長い時間をかけて積み上げてきたものが、すでに一つの経済圏を形成している。
そして現在、滋賀は副首都として政府機能の一部を担うまでになっていた。
「ここなら警備面も問題ありません」
社長が続ける。
「政府関係者との交渉にも都合がいい。東方カンパニーの主要拠点とも連携できます」
黒崎は黙って聞いていた。
「それに、東京のご自宅についても……」
社長が言葉を選ぶ。
「息子さんも結婚されています。そろそろ、引き継がれてもいい時期ではないでしょうか」
黒崎はしばらく黙っていた。
東京郊外の家。
長い時間を家族と過ごした場所だった。
仕事から帰れば、そこに家族がいた。
子供たちが小さかった頃の声も残っている。
何気ない食事。
休日の朝。
家族で過ごした時間。
特別な家ではない。
だからこそ、思い出が詰まっていた。
「……少し寂しいな」
黒崎がぽつりと言った。
美咲が隣を見る。
「そうね」
黒崎は家の中を見渡した。
「ここ、結構長かったもんな」
「子供たちもここで大きくなったしね」
「ああ」
少しだけ沈黙が続いた。
やがて黒崎が息を吐く。
「でも、息子が使うならいいか」
美咲が笑う。
「そういうところは、やっぱり普通のお父さんね」
「当たり前だろ」
黒崎は少し不満そうに答えた。
「家まで仕事にする気はないぞ」
こうして、東京郊外の家は息子へ引き継ぐことになった。
息子はすでに結婚し、自分の家庭を築いている。
タイミングとしても悪くなかった。
黒崎夫妻は、これを機に滋賀へ生活拠点を移すことにした。
新しい生活が始まる。
ただし、滋賀は黒崎にとって未知の土地ではない。
ずっと前から関わってきた場所だった。
かつて土地を買い集め、工場を置き、道路を整え、電力を通し、物流を整備した。
企業が集まり、人が集まり、住宅が増えた。
やがて行政機能まで集まり、副首都となった。
昔、地図を広げながら土地の位置を確認していた場所が、今では日本有数の経済・行政拠点になっている。
その一角に、投資会社「黒崎」の施設がある。
高度な警備。独立した通信網。非常用電源。医療設備。会議設備。
黒崎夫妻と四人の専門家が、ここを拠点に活動する。
東京から完全に離れたわけではない。
必要があれば東京へ行く。
だが、普段は滋賀にいる。
そして新安へは行かない。
新安政府からの報告は、ここへ届く。
東方カンパニーの経営資料も届く。
日本政府との交渉が必要なら、政府側が滋賀へ来る。
海外からの重要な使者も、必要ならここで迎える。
黒崎自身が動く必要はなかった。
その日の夜、六人が会議室に集まった。
新安政府から届いた制度案が机に並んでいる。
四人の専門家が順番に説明していく。
「国家戦略評議会を設置します。新安政府だけでは判断できない重要案件を、ここで審議します」
「東方カンパニーの経営判断についても、国家に重大な影響を与えるものは対象です」
「最終承認は六名の合意を必要とします」
黒崎が顔を上げた。
「拒否権か?」
「正確には承認権です」
「違いは?」
「通常の行政や企業活動には介入しません。指定された重要事項だけ、六人の承認がなければ進められない仕組みです」
美咲が資料を確認する。
「普段のことは政府と会社に任せる。でも、国の方向を変えるような案件だけは、ここで判断する」
「その通りです」
黒崎はしばらく考えた。
「それならいい」
翌日、新安共和国で新たな法律が公布された。
国家戦略評議会設置法。
国家安全保障。基幹インフラ。重要資源。大規模な財政支出。国家経済に重大な影響を与える政策。
これらについて、政府は国家戦略評議会へ諮問する。
同時に東方カンパニーでも組織規程が改定された。
大型投資。重要インフラの取得。資源開発。大規模な海外事業。保安部門の大幅な変更。企業の存続に関わる重大案件。
これらも投資会社「黒崎」の承認を必要とする。
これまで水面下で行われていた意思決定が、制度として形になった。
新安政府は国を運営する。
東方カンパニーは企業として経済とインフラを支える。
そして滋賀にいる六人が、その二つの進む方向を見ている。
最初の案件が届いた。
新安の国家エネルギー網を全面的に再編する計画だった。
画面には新安政府の担当者が映っている。
「政府としては、五年計画を想定しています」
東方カンパニーの担当者が資料を確認する。
「三年に短縮できます」
「資金は?」
「問題ありません」
四人の専門家が数字を確認する。
美咲も資料に目を通した。
「三年なら、復興速度がかなり変わる」
黒崎は全員の意見を聞いた。
そして最後に言った。
「三年でやれ」
「承認します」
記録担当が入力する。
投資会社『黒崎』六名、全会一致により承認。
決定は新安政府へ送られた。
翌日から、計画が動き始める。
黒崎は滋賀から動いていない。
だが、一つの国家のエネルギー政策が変わった。
夜。
仕事を終えた黒崎は、会議室を出た。
家に戻る。
風呂から上がると、冷蔵庫を開けた。
「美咲、ビールあるか?」
「冷やしてあるよ」
「じゃあ一本」
黒崎は缶ビールを手に取り、テレビの前に座った。
ニュースでは、新安共和国の復興計画が報じられている。
画面の中では、各国の政府関係者や専門家が、新安と東方カンパニーについて議論していた。
その中心には、当然のように黒崎の名前も出てくる。
しかし本人は、テレビを眺めながらビールを飲んでいる。
「……あいつら、よくしゃべるな」
「あなたのことも話してるけど?」
「知らん」
そう言って、黒崎はビールを一口飲んだ。
しばらくテレビを眺めていた黒崎が、ふと口を開いた。
「……ちょっと最近、働きすぎたな」
美咲が笑う。
「今さら?」
「最近ずっと忙しかっただろ」
「まあね」
「今日はもういいや」
黒崎はリモコンを手に取り、ニュースから別の番組へ変えた。
国家の行方を左右する決定権を持つ。
巨大企業を動かす。
一つの国家の復興計画を数年単位で変更させる。
世界中の政府が、その動向を注視している。
それでも家に帰れば、風呂上がりにテレビを見ながらビールを飲む親父だった。
そこだけを見れば、どこにでもいる普通の父親と変わらない。
だが、それ以外は違う。
異常なまでの資産。
異常なまでの情報網。
異常なまでの決断力。
そして、自分が必要だと思えば国家の形すら変えてしまうほどの影響力。
日常だけが、異常なほど普通だった。
美咲が隣に座る。
「明日も朝から会議?」
黒崎は少し考えた。
「……明日は遅くていいだろ」
「珍しい」
「最近働きすぎたからな」
「じゃあ、ゆっくり寝れば?」
「ああ」
黒崎はビールを飲みながら、テレビに目を戻した。
世界が黒崎を特別な存在として見始めても。
本人だけは、昔と変わらない。
家に帰り、風呂に入り、ビールを飲み、テレビを見る。
そんな普通の親父だった。
ただし。
その親父が、世界の一角を動かしていた。




