疑心
亡国政府は、まだ自分たちには切り札があると考えていた。
軍である。
警察の一部が中央の指示から離れ、地方政府が独自に動き、企業が政府の命令よりも自分たちの判断を優先するようになっても、軍だけは政府の指揮下にある。
少なくとも、政府首班はそう信じていた。
「軍が動けば、まだ押さえ込める」
閣議の席で、その言葉に異論を挟む者はいなかった。
だが、軍内部では違った。
警察はすでに一枚岩ではない。地方政府も中央から距離を取り始めている。そして、電力、港湾、物流、通信といった国の基盤は、東方カンパニーの影響を受け始めていた。
軍が命令を出しても、燃料が届かなければ部隊は動けない。兵站が止まれば、装備も食料も届かない。
軍上層部は、その現実を理解していた。
「政府は、まだ我々を握っているつもりだ」
ある幹部が呟いた。
「実際、命令系統は政府にある」
「命令系統だけならな」
別の幹部が答えた。
「問題は、その命令を実行するためのものが誰の手にあるかだ」
そんな中、軍内部の一部に東方カンパニー側から非公式な提案が届いた。
軍が一定の条件を受け入れるなら、軍そのものを敵とは見なさない。
兵站を維持する。
軍人とその家族の生活を守る。
既存の軍組織も一定の範囲で存続させる。
そして、軍が政府による弾圧に加担しない。
「……これが一番現実的ではないか」
現場に近い将校ほど、そう考えた。
政府を守るために動けば、警察と衝突する。地方政府とも対立する。東方カンパニーと関係を持つ企業とも対立する。
その先にあるのは、内戦に近い状態だ。
ならば、一定の条件を飲み、軍の存続を確保する。
軍人としては、十分に検討する価値があった。
しかし、その情報は軍内部だけに留まらなかった。
東方カンパニー本社。
黒崎の前に報告書が置かれた。
「軍内部で、こちらとの接触を検討する動きがあります」
社長が説明する。
「まだ一部です。ただ、現場では政府側につくより、東方カンパニー側と条件をまとめた方が軍を維持できるという意見が出ています」
美咲が資料をめくる。
「軍まで、現実を見始めたのね」
黒崎はしばらく黙っていた。
「この情報を政府に流せ」
社長が顔を上げた。
「……軍との接触を?」
「ああ」
「それでは政府が軍を疑います」
「疑わせる」
黒崎は即答した。
「軍をこちらに引き込む必要はない」
地図に視線を落とす。
「政府に、自分たちの軍を信用できなくさせればいい」
美咲が静かに言った。
「そして軍には、政府が自分たちを切ろうとしていると思わせる」
「そうだ」
黒崎はそれ以上説明しなかった。
数日後。
亡国政府に、一通の匿名資料が届いた。
軍幹部と東方カンパニー側との接触。非公式な条件交渉。軍内部で政府から距離を取ることを検討している幹部。
それらを裏付ける資料も添えられていた。
政府中枢は騒然となった。
「どこまで本当だ?」
「現在、照合しています」
「軍トップは知っていたのか?」
担当官が答えに詰まる。
「……その可能性があります」
その一言で、空気が変わった。
政府首班は資料を閉じた。
「軍トップを呼べ」
その日の夕方。
軍トップが政府庁舎に入った。
通された部屋には、政府首班と数名の高官が待っていた。
机の上には資料が積まれている。
椅子を勧められることもなかった。
「説明してもらおう」
政府首班が言った。
軍トップは資料を一枚取った。
「東方カンパニーとの接触についてですか」
「分かっているなら話は早い」
「軍を維持するための情報交換です」
「誰の許可を得た?」
「正式な交渉ではありません」
「質問に答えろ」
声が鋭くなった。
「誰の許可を得た?」
軍トップは一瞬黙った。
「……私の判断です」
政府首班は隣の高官を見る。
その高官が別の資料を開いた。
「では、これは?」
そこには別の軍幹部の名前が並んでいた。
「この者たちとの協議も、あなたの判断か?」
「軍の内部調整です」
「政府に報告しなかった理由は?」
「状況が流動的だったからです」
「流動的?」
政府首班が低く笑った。
「政府に報告できないほどの状況だったということか」
「そういう意味ではありません」
「では、どういう意味だ?」
一つの質問が終わるたび、別の資料が出される。
誰が接触したのか。
いつ接触したのか。
何を要求されたのか。
どこまで軍内部で共有されたのか。
政府への報告を止めたのは誰か。
軍トップは一つずつ答えた。
だが、答えるほどに逃げ道が狭くなっていった。
やがて政府首班が一枚の資料を机に置いた。
「軍人とその家族の生活を保障する」
そこに記された条件を指で叩く。
「これも軍を維持するための交渉だったのか?」
「……そうです」
「つまり、東方カンパニーが今後この国で影響力を持つことを前提にしていた」
「軍の存続を優先したまでです」
「政府ではなく?」
軍トップが顔を上げた。
「今の状況で、政府の命令だけを待っていれば軍そのものが機能しなくなる」
室内が静まり返った。
政府首班はしばらく軍トップを見つめた。
「もう一度言え」
「……軍そのものが機能しなくなる、と」
「違う」
政府首班の声が冷たくなる。
「その前だ」
軍トップは答えなかった。
「政府ではなく、軍の存続を優先した。そういう意味か?」
長い沈黙。
「……軍を守ることを優先しました」
その瞬間、政府首班は資料を閉じた。
「十分だ」
「閣下――」
「本日の召喚は終了だ」
軍トップは部屋を出た。
だが、その日のうちに職務停止が決まった。
政府から発表されたのは、それだけだった。
「重大な規律違反について調査中」
その数日後――。
軍トップは、失踪した。
それ以上の説明はなかった。
だが、軍内部に走った動揺は大きかった。
軍トップと接触していた者。
東方カンパニーとの関係を疑われた者。
政府への忠誠を疑われた者。
誰もが、自分の身を案じ始める。
「次は誰だ」
その言葉が、司令部のあちこちで囁かれた。
命令を出す側も、受ける側も、相手の忠誠を疑う。
政府は軍を押さえ込んだつもりだった。
だが実際には、軍の指揮系統に亀裂を入れていた。
東方カンパニー本社。
報告を聞き終えた黒崎は、静かに資料を閉じた。
「軍トップは?」
社長が答える。
「失踪したままです」
「そうか」
黒崎は、それ以上尋ねなかった。
美咲が黒崎を見る。
「あなたが直接、軍を壊したわけじゃない」
「ああ」
黒崎は地図を見る。
「自分たちで疑い始めた」
「それで十分?」
黒崎は少しだけ笑った。
「十分だ」
警察は中央政府から離れ始めている。
インフラは東方カンパニーの影響下にある。
地方政府も独自に動く。
そして今、軍まで中央政府との間に亀裂を抱えた。
これまで亡国を支えていた二本の柱。
政府と軍。
その一方を支えるために、政府はもう一方を疑った。
そして最後には――。
自ら柱を切った。
黒崎は地図を眺めながら呟いた。
「軍を奪う必要はない」
美咲を見る。
「政府を倒す必要もない」
黒崎の視線が再び地図へ戻る。
「互いに疑わせればいい」
そして、小さく笑った。
「壊れる時は、自分たちで壊れる」




