腐り落ちる国
「中央政府は腐って、腐り落ちる寸前だな」
黒崎の言葉に、誰も答えなかった。
目の前には、亡国の地図が広がっている。中央政府、地方政府、軍、警察、港湾、物流。それぞれが少しずつ中央から離れ始めていた。それでも、中央政府そのものはまだ存在している。
黒崎は地図を指でなぞった。
「だが、殺しはしない」
社長が顔を上げる。
「……殺さない?」
「ああ。政府という器は残す」
黒崎の声は静かだった。
「傀儡として置いておく。声明を出させる。外交をさせる。法律を作らせる。国民に説明させる」
美咲が黒崎を見る。
「表に立たせるのね」
「そうだ。我々が前に出れば、必ず反発が生まれる。政府が言えば、政府の判断として受け取られる」
社長が慎重に尋ねた。
「では、現在の政府首班も?」
黒崎は少し考えた。
「今は使う」
それだけだった。
黒崎にとって、人間は極めて単純だった。
必要か。
無用か。
必要なら残す。
無用なら切る。
そこに情はない。
だからこそ、美咲はそれまで何度も黒崎に問い続けてきた。
必要かどうかだけで、人間を切り分けていいのか。
その人間の周囲にいる者まで、同じように扱う必要があるのか。
黒崎は、そのたびに答えを出さなかった。
だが、無視もしなかった。
今回も同じだった。
「独裁の裏返しは、一手の責任追及だ」
黒崎が言った。
「権力を一人に集めたのなら、その責任も一人に集まる」
そして、ほんの少し間を置く。
「一族郎党、皆の命を背負ってもらう」
美咲の表情がわずかに動いた。
黒崎は気づいていた。
美咲が何を考えているのか。
以前なら、そのまま進めていただろう。
必要か無用か。
それだけで判断すればいい。
だが――。
「……それは違う」
美咲の声だった。
黒崎が振り返る。
「何が?」
「その人間を排除することと、その一族まで巻き込むことは別でしょう」
黒崎は黙って美咲を見る。
「あなたが欲しいのは政府を壊すことじゃない。使える政府を残すこと。なら、余計な恨みまで作る必要はない」
黒崎は答えなかった。
美咲は続ける。
「必要か無用か。それだけで切るなら、あなたは最後には誰も残せなくなる」
その言葉だけが、黒崎の中に残った。
そして今。
黒崎は地図を見ながら言った。
「……その時が来たら、政府から排除する」
美咲は何も言わなかった。
それ以上を言う必要がないことを知っていた。
黒崎も、それ以上は語らない。
だが、判断は変わっていた。
首班は排除する。
政府という器は残す。
そして、その家族まで巻き込む必要はない。
「今はまだ使える」
黒崎の視線が政府中枢へ向く。
「権威も、制度も、外交上の立場も」
低い声が続く。
「全部使え」
一拍。
「吸い付くせ」
誰も口を挟まない。
「枯れてしまってから切ればいい」
政府は残す。
議会も残す。
行政機構も残す。
国旗も、外交上の立場も残す。
ただ、その中心に座る人間だけが、いずれそこから排除される。
黒崎は窓の外を見た。
「政府を潰す必要はない」
そして静かに付け加えた。
「使える間はな」
美咲は黒崎の横顔を見つめた。
黒崎は今でも、人間を必要か無用かで判断している。
その根本は変わっていない。
ただ――その判断の外側にいる人間まで、切り捨てる必要はない。
それだけは、いつの間にか黒崎の中に残っていた。
そして、その変化を生んだ理由を、黒崎自身が口にすることはなかった。




