死んだ心
黒崎恒一は、どこにでもいる男だった。
普通の家庭で育ち、普通に学校へ通い、普通に大学を卒業した。特別な才能があったわけでもない。人より優れていたわけでもない。
大学を出ると一般企業へ就職し、朝は満員電車に乗って会社へ向かう。上司の指示に従って仕事をし、昼休みには同僚と飯を食べ、定時を過ぎれば疲れた顔で帰宅する。給料日には少し嬉しくなり、休日には寝坊する。
そんな生活を、黒崎は悪くないと思っていた。
それが普通だった。
そして、普通でいられることが幸せなのだと思っていた。
株を始めたのも、最初は大した理由ではなかった。
「少し増えればいいな」
給料の一部を証券口座へ入れ、株を買う。株価が上がれば嬉しいし、下がれば少し不安になる。それでも、生活を壊すほどではなかった。
ところが、利益が出ると欲が出た。
もう少し買えば、もっと増える。
そう考えるようになった。
現物だけでは物足りなくなり、信用取引にも手を出した。最初の頃はうまくいっていた。数字が増えていくのが嬉しくて、会社で何年も働かなければ得られないような金額が、画面の中では簡単に動いていた。
「……こんなに増えるのか」
黒崎は笑った。
もっといける。
そう思った。
そして、崩れた。
株価が急落した。
最初は戻ると思っていた。しかし、戻らない。さらに下がる。
黒崎は追加で買った。
ここまで下がれば、もう上がるだろう。
そう考えた。
だが、さらに下がった。
ある朝、スマートフォンに証券会社から通知が届いた。
追加保証金。
追証。
黒崎は画面を見つめた。
「……いくらだよ」
表示された金額を見て、息が止まった。
払えない。
どう考えても払えない。
その日の夜、証券会社から電話が来た。
「黒崎様、追加保証金についてですが――」
担当者が淡々と説明する。
黒崎は、ほとんど何も答えられなかった。
「……待ってください」
「はい」
「少し、待ってもらえませんか」
「申し訳ありません。期限がありますので」
電話が切れる。
部屋が静かになった。
黒崎は、しばらく動かなかった。
会社の机でも、電車の中でも、頭の中にあるのは追証の金額だけだった。
そして最後に思い浮かんだのが、両親だった。
数日後。
黒崎は実家へ行った。
居間のテーブルに、両親が向かい合って座っている。
「……いくら必要なんだ?」
父親が聞いた。
黒崎は答えた。
父親は黙り込み、母親も何も言わなかった。
「そんなに使ったのか」
「……うん」
「何でこんなことになった」
黒崎は俯いた。
「取り戻せると思った」
「何を?」
「損した分を」
父親が長く息を吐いた。
やがて、低い声で言った。
「土地を売る」
黒崎が顔を上げる。
「土地?」
「祖父から相続した土地があるだろ」
「でも……」
「お前の借金を放っておいたら、どうなる?」
黒崎は何も答えられなかった。
両親は土地を売った。
その金で追証を支払った。
黒崎は助かった。
それでも、何かが戻ったわけではなかった。
しばらくして、父親が黒崎の証券口座を見た。
「お前、まだやるのか」
黒崎は答えられなかった。
「もうやめろ」
「……分かってる」
「分かってないだろ」
父親の声が震えた。
「俺たちが土地を売ってまで助けたんだぞ」
「それでも、まだ株を見るのか」
黒崎は黙っていた。
母親が、静かに言った。
「もう、恒一には何を言っても届かないのね」
その言葉が、黒崎には一番重かった。
怒鳴られた方がまだよかった。泣かれた方がまだよかった。
だが、母親はそれ以上何も言わなかった。
その日を境に、黒崎と両親の間には深い溝ができた。
連絡は減った。
やがて、なくなった。
会社にも行けなくなった。
朝、目覚ましが鳴る。止める。布団から出る。着替える。そこまではできる。
だが、玄関まで行けない。
「……行かなきゃな」
そう呟いても、身体が動かなかった。
会社から電話が来る。
「体調、大丈夫か?」
「……すみません」
「しばらく休むか?」
「はい」
休みは長くなった。
最初のうちは、同僚から連絡が来た。
「大丈夫?」
「また落ち着いたら飯でも行こう」
黒崎は返事をしなかった。
何を返せばいいのか分からなかった。
やがて、誰からも連絡が来なくなった。
そして、退職した。
退職届を提出した日の帰り道、黒崎は駅前で立ち止まった。
会社へ戻る必要はない。
明日も来なくていい。
自由になった。
そう思うことはできなかった。
ただ、行く場所がなくなった。
家に帰る。
電気をつける。
静かだった。
テレビをつけても、誰も話しかけない。スマートフォンを見ても、通知はない。
黒崎は冷蔵庫を開けた。
ほとんど何も入っていない。
腹は減っていた。
だが、料理をする気にもならなかった。
コンビニへ行き、弁当を買って帰る。それだけの生活が続いた。
ある夜。
黒崎は机の前に座っていた。
パソコンを開く。
証券口座。
画面には、少ない残高が表示されている。
もう、大金はない。
家族もいない。
仕事もない。
それでも、黒崎は株価を見ていた。
東方エネルギー。
当時は、まだ小さな会社だった。
株価も低い。
黒崎は、その数字を見つめた。
「……安いな」
なぜそう思ったのか。
本人にも分からなかった。
会社の将来を確信していたわけではない。世界を変える企業だと思ったわけでもない。
ただ、株価が動いていた。
数字があった。
それだけだった。
黒崎は、残った金を入れた。
買い注文。
約定。
画面に保有株数が表示される。
黒崎は、それをしばらく見つめた。
翌日も買った。
その翌日も買った。
生活費だけを残し、残りを株へ入れる。
株価を見る。
また買う。
それを繰り返した。
何のためなのかは、分からなかった。
金持ちになりたいわけではない。
家族を見返したいわけでもない。
会社を辞めたことを後悔していたわけでもない。
未来なんて、考えていなかった。
ただ。
株を買っている間だけは、何かをしている気がした。
何もない自分が、まだ何かを持っている気がした。
それだけだった。
黒崎の心は、この頃にはほとんど死んでいた。
普通の会社員だった自分。
家族に愛されたいと思っていた自分。
人並みに働き、人並みに結婚し、人並みに年を取っていく。
そんな未来を思い描いていた自分。
その男は、もういなかった。
残ったのは、失わないために何かを持とうとする本能だった。
それは希望ではない。
野望でもない。
もっと単純なものだった。
生き残るための、本能。
そして、その本能が毎日のように黒崎へ株を買わせた。
やがて。
東方エネルギーの株価が上がり始めた。
少しずつ。
そして、大きく。
黒崎の資産も増えていった。
だが、黒崎は喜ばなかった。
「……増えた」
それだけだった。
さらに上がる。
また増える。
それでも買う。
その繰り返しの中で、黒崎の資産は本人が想像していた範囲を超えていった。
そこで初めて。
黒崎の人生が、逆方向へ動き始めた。
美咲と出会った。
結婚した。
二人の子供が生まれた。
東京郊外に、一戸建てを構えた。
豪邸ではない。
派手な車もない。
休日には家族と買い物へ行き、庭の手入れをする。
「お父さん」
子供に呼ばれる。
「何だ?」
黒崎は振り向く。
笑う。
どこにでもいる父親にしか見えない。
だが。
その内側には、あの頃の自分が今も残っている。
家族を失った。
仕事を失った。
信用を失った。
そして。
社会から一度、切り離された。
その経験は、黒崎から消えることはなかった。
だから、黒崎は金を持つ。
土地を持つ。
企業を持つ。
資源を持つ。
世界中へ投資する。
危険なら分散する。
必要なものがあれば先に確保する。
それは、世界を支配したいからではない。
もう二度と、何もない場所へ戻りたくないからだ。
黒崎は今日も、東京郊外の家にいる。
「今日は何する?」
美咲が聞く。
「買い物かな」
「じゃあ、行こうか」
「ああ」
普通の会話。
普通の家族。
普通の男。
だが。
その男の奥では。
一度死んだ心のさらに奥で。
黒い生存本能だけが。
今も静かに蠢いていた。




