素直な気持ち
夫婦岩へ向かう道を、ヴィクターとアリアは並んで歩いていた。
少し前を盟友とエリアスが歩いている。二人は何か話しているようだったが、時々振り返ってはこちらの様子を確認していた。
アリアが、それに気づいて小さく笑う。
「二人とも、何か企んでいますね」
「たぶんな」
「ヴィクターは気にならないんですか?」
「いつものことだ」
ヴィクターも笑った。
しばらく歩く。
海が見えてきた。波の音が近くなる。風が吹き、アリアの髪が静かに揺れた。
ヴィクターは、何度か口を開きかけて、そのたびに閉じた。
普段なら、言葉に迷うことなどほとんどない。
会議なら、相手の意見を聞いて、その場で答えを出せる。外交交渉でも、軍事の判断でも、必要なら自分の考えをはっきり口にする。
だが。
今、言おうとしていることだけは違った。
言葉にしてしまえば、もう後には戻れない。
これまでの関係が変わるかもしれない。
アリアを困らせるかもしれない。
それでも。
言わないまま、これからも同じ時間を過ごすことにも、もう納得できなかった。
ヴィクターは足を止めた。
「アリア」
「はい?」
アリアも立ち止まる。
ヴィクターは海を見る。
波が寄せては返している。
遠くでは、観光客の声が聞こえる。
なのに。
二人の周りだけ、妙に静かに感じられた。
「少し、話したい」
アリアは何も言わず、ヴィクターを見た。
ヴィクターは一度息を吸った。
それでも、すぐには言葉が出てこない。
数秒。
長く感じる沈黙だった。
「……どうしたんですか?」
「いや」
ヴィクターは苦笑する。
「こういうの、慣れてなくてな」
「こういうの?」
「ああ」
また沈黙する。
アリアは急かさなかった。
ただ、黙って待っていた。
そのことが、ヴィクターにはありがたかった。
やがて。
ヴィクターは、アリアをまっすぐ見た。
「俺は、お前のことが好きだ」
アリアの表情が止まった。
風だけが二人の間を通り過ぎていく。
ヴィクターも、言葉を続けなかった。
自分の鼓動が、妙に大きく聞こえる。
戦場で銃声に囲まれていた時でさえ、こんな感覚にはならなかった。
アリアが何を言うのか。
それを待つ時間が、今までで一番長く感じられた。
「……驚きました」
ようやく、アリアが口を開いた。
「そうだろうな」
「でも」
アリアは視線を落とした。
「嫌ではありません」
ヴィクターが、少しだけ目を見開く。
アリアは、そのまま海を見つめていた。
「私も……」
そこから先が、なかなか出てこない。
アリアもまた、言葉を探していた。
「あなたに惹かれていたのは、事実です」
ヴィクターは黙って聞く。
「最初にあなたの国へ来た時、私は不安でした」
「自分の国と敵対している国でしたから」
「何が起きるのか分からなかった。誰を信じていいのかも分からなかった」
アリアは、ゆっくり息を吐いた。
「そんな時に、あなたに会った」
「あなたは、不思議なくらい純粋でした」
「国のために働いているのに、自分を大きく見せようとしない」
「誰かが困っていれば、自分が危険になることも気にせず助けに行く」
「自分の立場より、人を優先する」
アリアは少し笑った。
「最初は、理解できませんでした」
「どうして、そこまでできるんだろうって」
波の音が、二人の間に流れる。
「でも」
アリアはヴィクターを見る。
「そんなあなたを見ているうちに、少しずつ惹かれていきました」
「それは、本当です」
ヴィクターは、何も言わなかった。
嬉しい。
そう思った。
だが、アリアの表情には、まだ迷いが残っていた。
「でも」
その一言で、アリアの顔が少し曇る。
「あなたは、元は敵国の首脳です」
「私の国と戦った側の人間です」
ヴィクターは黙っている。
「今は違うと分かっています」
「あなたが私に何かをしたわけでもない」
「むしろ、あなたには何度も助けてもらった」
「それでも」
アリアは胸元に手を置いた。
「自分の感情だけで、それを受け入れていいのか分からないんです」
ヴィクターは、何も言わなかった。
アリアの声は、少しずつ小さくなっていく。
「あなたを好きになることは、私自身が選べる」
「でも、その気持ちを認めた瞬間、過去まで全部なかったことにしてしまうような気がする」
「戦争で傷ついた人たちのこと」
「私の国で亡くなった人たちのこと」
「あなたの国で亡くなった人たちのこと」
「それを考えると」
アリアは一度言葉を止めた。
すぐには続きを話せなかった。
ヴィクターは待った。
何も言わず。
ただ、そこにいた。
やがてアリアが顔を上げる。
「簡単には、あなたの隣に立てないんです」
その言葉を聞いても。
ヴィクターは、すぐには答えなかった。
海を見た。
波が静かに岩へぶつかっている。
アリアの気持ちを、無理に変えようとは思わなかった。
「分かった」
ヴィクターが言った。
「……それだけ?」
アリアが少し驚く。
「ああ」
ヴィクターは、ゆっくり続ける。
「俺には、お前の過去を消すことはできない」
「戦争で死んだ人たちを、いなかったことにもできない」
「お前が悩んでいることを、俺が勝手に終わらせることもできない」
アリアは黙って聞いている。
「だから、無理に答えを出さなくていい」
ヴィクターはアリアを見る。
「でも」
一度、言葉を切った。
「一つだけ言っておく」
アリアが顔を上げる。
「何があっても、お前を守るよ」
アリアの目が揺れた。
「国の立場とか」
「昔の敵だったとか」
「周りが何を言うとか」
「そんなこととは関係なく」
ヴィクターは、まっすぐアリアを見る。
「お前が困っているなら、俺は助ける」
「お前が危険なら、俺は守る」
「それだけは変わらない」
アリアは、しばらく何も言わなかった。
やがて。
目元を指で拭った。
「……ずるいですね」
「何が?」
「そんなことを言われたら」
アリアは涙を隠すように笑った。
「余計に、好きになってしまうじゃないですか」
ヴィクターが少し驚く。
「それは……」
「責任、取ってくださいね」
アリアが笑う。
ヴィクターも、ようやく笑った。
「分かった」
「本当に?」
「ああ」
「約束ですよ」
「約束する」
アリアは、少しだけヴィクターとの距離を縮めた。
「ヴィクター」
「ん?」
「もう少し、一緒に歩きませんか?」
「もちろん」
二人は、再び歩き始めた。
少し前では、盟友とエリアスがこちらを振り返っている。
盟友が、拳を握った。
「よし」
エリアスが呆れた顔をする。
「何が、よしなんですか」
「見れば分かるだろ」
「……まあ、そうですね」
二人は顔を見合わせ、静かに笑った。
ヴィクターとアリアは、まだ正式に恋人になったわけではない。
けれど。
今日。
二人は初めて、自分たちの気持ちを言葉にした。
そして。
これまで敵国の人間として向き合っていた二人の間に、別の関係が生まれ始めていた。




