人質
戦闘が終わってから、数日が過ぎた。連合軍は国境から撤退し、戦場にはようやく静けさが戻っていた。しかし、戦闘が残した傷は大きかった。連合側では多くの兵士が死亡し、艦艇や航空機も失われ、各国の軍は大きな損害を受けていた。一方、連邦側では、これまでに確認された人的被害はなかった。
「人的被害は?」
ヴィクターが報告書を見る。
「ありません」
「死者も?」
「ゼロです」
「負傷者は?」
「確認されていません」
ヴィクターは黙って資料を見た。だが、連邦も無傷ではない。第3防衛ラインの道路や通信設備、一部の防御施設が破壊され、いくつかの車両も失われていた。街の一部にも被害が出ている。
「インフラは?」
「道路、通信、電力施設の一部に被害があります」
「復旧には?」
「数週間から数か月かかる見込みです」
「そうか」
ヴィクターは地図を見る。守り切った。だが、国は傷ついている。そして、国境の向こうでは、多くの人間が死んでいた。
「連合側の被害は?」
「まだ正確な数字は出ていません。ただ、死者はかなりの数になると思われます」
ヴィクターは資料を閉じた。
「……もう、十分だ」
それから数日後、中立国から正式な停戦交渉の申し入れが届いた。連邦と連合各国の代表が、一つの会議室に集まる。
「停戦を望む」
連合側の代表が言った。
「こちらもだ」
ヴィクターが答える。これ以上続ければ、さらに多くの人間が死ぬ。そのことだけは、両者とも分かっていた。
「条件を聞きたい」
連合側の代表が言う。ヴィクターは資料を開いた。
「第一に、賠償だ」
相手の表情が硬くなる。
「どの程度を?」
「連邦が受けた被害の復旧費用を基準にする」
「人的被害は?」
「こちらにはない」
その言葉に、連合側の代表が一瞬黙った。
「では、要求は大きくないということですか?」
「違う」
ヴィクターは静かに答えた。
「道路が壊れた。通信設備も壊れた。電力施設も被害を受けた。防御施設も破壊された。街にも被害が出た。人が死ななかったから、被害がないわけじゃない」
会議室が静かになる。
「だから、復旧に必要な費用を負担してもらう」
連合側は資料を確認した。
「一括では無理です」
「分かっている」
「数年に分けてほしい」
「構わない」
「復興事業への参加でもいいでしょうか?」
ヴィクターは少し考えた。
「いい。賠償金だけではなく、道路、港、電力、病院などの復旧事業に参加してもらう。それなら、双方に利益が出る」
連合側の代表が頷いた。
「第二は?」
「不可侵だ」
ヴィクターは地図を広げた。
「連邦への侵攻を行わない」
「我々も同じ条件を求めます」
「当然だ」
「国境付近の軍事活動は?」
「一定範囲で制限する」
「軍事演習は?」
「事前通告を必要とする」
「航空機や艦艇が接近した場合は?」
「互いに連絡する」
細かい条件が、一つずつ決まっていった。単純に「戦争をしない」と書くだけではない。どこまでが軍事行動なのか、どこからが条約違反なのか、偶発的な衝突が起きた時にどう連絡するのか、国境付近で部隊を移動させる場合にどこまで知らせるのか。何度も意見がぶつかった。
それでも、ヴィクターは譲らなかった。戦争を終わらせるために必要な線だけを、一つずつ引いていった。
「最後だ」
ヴィクターが言った。
「保証人を出してもらう」
連合側の代表が顔を上げた。
「保証人?」
「各国から一人ずつ。連邦で生活してもらう」
「それは、人質でしょう」
「そう呼んでもいい」
ヴィクターは否定しなかった。
「ただし、拘束はしない。住む場所を用意する。生活も自由にする。教育も受けられる。仕事もできる。条約が守られている限り、帰国も認める」
「では、なぜ必要なのです?」
ヴィクターは少し黙った。
「条約だけでは、人間は戦争を始める。今回、それを見た。だから、条約を破った時に失うものを作る」
連合側の代表が言う。
「家族を差し出せということですか?」
「誰を出すかは、各国が決める。ただし、政府や軍の意思決定に近い人間が望ましい。そして、本人の意思を確認する」
相手が眉を寄せる。
「それでも、強制でしょう」
「そうかもしれない」
ヴィクターは認めた。
「だが、俺たちはもう、次の戦争を始める余裕はない。あなた方も同じだ」
その言葉に、連合側は黙った。
交渉は、その日だけでは終わらなかった。賠償額、支払い期間、復興事業、国境の軍事制限、航空機の接近、艦艇の航行、捕虜の扱い、戦争中に失われた財産、そして保証人。何度も休憩を挟みながら、協議は続いた。
最終的に、連合側は三つの条件を受け入れた。賠償、不可侵、そして各国から一人ずつ保証人を出すこと。
その条件が決まった後、今度は各国で人選が始まった。
「誰を出す?」
「政府高官では、政権が不安定になる」
「軍人では?」
「軍の反発が強い」
「現職の大臣は?」
「国内政治への影響が大きすぎる」
「一般人では?」
「政治的な保証にならない」
議論は何日も続いた。そして、一つの国で一人の女性の名前が挙がった。
「アリア・ヴァレス」
二十九歳。現職の国会議員。外交委員会の副委員長。そして、戦争前まで国を率いていた元大統領の娘だった。
「アリアを?」
閣僚の一人が聞き返す。
「彼女なら政治的な意味がある。外交委員会にいる。国際情勢も理解している。そして、元大統領の娘だ」
別の閣僚が言った。
「本人が納得するとは思えない」
「それでも、本人に聞くしかない」
その日の夕方、アリアは政府庁舎へ呼ばれた。
「何の話でしょう?」
部屋に入ったアリアは、集まっている人間の表情を見て、何か重大な話だと察した。
「座ってくれ」
外務担当者が言う。アリアが席につく。
「停戦交渉についてだ」
「はい」
「連邦から、保証人を出す条件が出ている」
「聞いています」
「君に、その候補になってほしい」
アリアは、すぐには言葉が出なかった。
「……私が?」
「ああ」
「なぜですか?」
「君は国会議員だ。外交委員会の副委員長でもある。そして、元大統領の娘だ」
アリアは目を伏せた。
「つまり、政治的な価値があるから?」
「そういうことだ」
「私自身ではなく?」
担当者は答えに詰まった。
アリアは、少しだけ笑った。
「分かりました」
だが、その声に納得はなかった。
「連邦で、何をされるんですか?」
「拘束はされない」
「自由に生活できる」
「仕事も、勉強もできる」
「監視は?」
「必要最低限だ」
「帰国は?」
「条約が守られている限り、認められる」
アリアは黙って聞いていた。条件だけを聞けば、人質という言葉から想像するものとは違う。住む場所がある。仕事もできる。外へ出ることもできる。帰国する可能性もある。
それでも、自分の意思で帰れない期間が生まれる。自分の国が条約を破れば、帰れなくなる。自分の人生が、政府同士の約束に結びつく。
「……いつまでですか?」
「条約が続く限りだ」
アリアの表情が変わった。
「期限は?」
「決められていない」
その言葉が、一番重かった。
「つまり、私が帰れるかどうかは、私では決められない」
「……そうなる」
アリアは椅子の背にもたれた。政治家としては理解できる。国のために必要なのも分かる。でも、一人の人間としては、怖かった。
「少し時間をください」
アリアは立ち上がった。
「もちろんだ」
政府庁舎を出る。外は、いつもの街だった。車が走っている。店が開いている。人々が歩いている。戦争が終わったばかりなのに、街は少しずつ日常を取り戻していた。
アリアは、しばらく歩いた。交差点で信号が変わる。いつもなら何も考えずに渡る道だった。今日は、足が止まった。
連邦へ行く。その言葉が、頭から離れない。今の生活を捨てるわけではない。命を取られるわけでもない。それでも、自分の国を離れる。いつ戻れるか分からない。それが、思っていた以上に怖かった。
アリアは、近くの公園に入った。ベンチに座る。スマートフォンを見る。何度も政府からの連絡を確認した。候補になった。返事はまだしていない。
画面を閉じる。そして、また開く。その繰り返しだった。
「……私じゃなくてもいいじゃない」
小さく呟く。
しかし、すぐにその考えを打ち消した。
自分じゃなければ、別の誰かが行く。その人にも家族がいる。その人にも生活がある。そして、その人が政治的な意味を持たなければ、連邦が保証人として認めない可能性もある。
「……ずるいな」
アリアは、空を見上げた。
自分が断れば、別の誰かが行く。自分が受け入れれば、自分の人生が変わる。どちらを選んでも、完全に正しい答えはなかった。
夕方。アリアは国会へ向かった。自分の席に座る。机の上には、いつもの資料があった。法案、外交資料、委員会の日程。何も変わっていない。それなのに、今日はすべてが違って見えた。
外交資料を開く。連邦について書かれたページがある。戦争、停戦、防衛、賠償。アリアは、その文字をじっと見つめた。
自分がこれから行くかもしれない国。つい数日前まで、敵として戦っていた国。
「……怖いな」
誰にも聞こえない声で呟いた。
同僚が近づいてくる。
「アリア」
「何?」
「本当に行くの?」
「まだ決めてない」
「でも、候補なんでしょう?」
「そう」
「怖くない?」
アリアは少し笑った。
「怖いよ」
「だったら、断ればいい」
「……そう簡単じゃないの」
アリアは、しばらく答えなかった。
「私が断ったら、誰かが行く」
「……」
「その人が私より怖い思いをするかもしれない」
「でも、アリアだって怖いだろ」
「うん」
アリアは正直に答えた。
「すごく怖い」
「だったら――」
「でも」
アリアが言葉を遮る。
「この戦争で、たくさんの人が死んだ」
「私たちも、もうこれ以上失いたくない」
同僚は何も言わなかった。
「だから、私が行くことで戦争を止められるなら……」
そこで、アリアは言葉を止めた。
止められる。本当にそうなのか。
自分一人が連邦へ行ったところで、政府が条約を守る保証になるのか。戦争が起きれば、自分は帰れなくなる。それだけで、政府が本当に戦争を避けるのか。
確信はなかった。
「……私、何を信じればいいんだろう」
その夜、アリアは父親のもとを訪れた。
「連邦へ行くことになりそう」
元大統領は、しばらく黙っていた。
「人質としてか」
「保証人」
「同じことだ」
アリアは苦笑した。
「私もそう思う」
「行くな」
父親が言った。アリアは顔を上げる。
「え?」
「お前が行く必要はない」
「でも、誰かが行かなければならない」
「他の人間を出せばいい」
「じゃあ、誰を?」
父親は答えられなかった。
「政府高官を出せば、政府が揺れる。軍人を出せば、軍が反発する。一般人を出せば、連邦が納得しない」
アリアは静かに続けた。
「だから、私なんでしょう?」
父親は何も言わなかった。
アリアは、父親の顔を見つめた。
「お父さんなら、どうする?」
元大統領は、すぐには答えなかった。
「俺なら、お前を行かせない」
「国より?」
「違う」
父親は首を振った。
「国のためでも、お前は俺の娘だ」
その言葉に、アリアは何も言えなかった。
しばらくして、父親が言う。
「政治家として行く必要があるなら、行け」
「でも、父親としては?」
「行かせたくない」
アリアは目を伏せた。その言葉が、一番つらかった。
国のためなら行けると思っていた。必要だと言われれば、覚悟できると思っていた。
でも。
自分を止めてくれる人間がいる。それが、逆に迷いを深くした。
「……怖いよ」
アリアが言った。
「分かってる」
「帰れなくなるかもしれない」
「分かってる」
「何年も戻れないかもしれない」
「それでも、行くのか?」
アリアは答えられなかった。
父親の家を出たあと、アリアは一人で夜道を歩いた。スマートフォンを取り出す。政府からの連絡が来ている。
『回答をお願いします』
短い文章だった。
アリアは、しばらく画面を見つめた。返信画面を開く。
『行きます』
そこまで入力した。
指が止まる。
消す。
もう一度入力する。
『今回は、お受けできません』
また消す。
何度も繰り返した。
最後には、スマートフォンを閉じた。
「……決められない」
その夜、アリアは眠れなかった。ベッドに入っても、目を閉じても、連邦という言葉が頭から離れない。
知らない街。
知らない人間。
知らない言葉。
そして、帰れなくなるかもしれないという不安。
それでも、戦争で失ったものを思い出す。死んだ兵士。壊れた街。泣いていた子供。もう二度と、同じ光景を見たくなかった。
朝。
アリアは窓を開けた。街に朝日が差し込んでいる。昨日と同じ街。昨日と同じ国。でも、自分だけが、もう昨日と同じではなかった。
アリアはスマートフォンを手に取った。政府の番号を開く。しばらく迷った。
そして。
「行きます」
電話の向こうが、しばらく黙った。
「本当に?」
「はい」
「後悔するかもしれません」
「分かっています」
アリアは窓の外を見た。
「それでも、行きます」
電話を切る。
その瞬間、怖さが消えたわけではなかった。むしろ、これから始まる生活を考えると、胸が苦しくなった。
それでも、自分で決めた。
アリア・ヴァレスは、自分の国を離れることを決めた。
その日、彼女はまだ知らなかった。
人質として向かう国で、かつて敵だった国の元大統領と出会い、やがて、その出会いが自分の人生だけではなく、二つの国の未来まで変えていくことを。




